◎「きぶし」(形ク)
「きいみうし(着忌憂し)」。「き(着)」は蒙(かうむ)る、受ける、こと(→「き(着)」の項・7月20日)。「きいみうし(着忌憂し)→きぶし」すなわち、蒙るところの、なにかを忌む思いが「うし(憂し)」であり、心情的に不活性化する、とは、忌む思いにさせるなにかが過剰なのです。負担を超えるほどに忌みを感じさせる。すなわち、過酷で、厳格で、厳しいなにごとかが影響を与えている。そうした状態であることを表現するのが「きいみうし(着忌憂し)→きぶし」。人間性や生活の仕方がなにごとかへの過酷な厳格さを感じさせるものであったり、土地の形状が進行に過酷さを感じさせるものであったり、物の密集度が他のものの侵入を許さないような稠密なものであったり、食べ物の味が快楽を厳しく拒否しているような印象であったり(たとえば渋い)といったことも表現する。
「苛察はきふくあたる事なり」(『荘子抄』)。
「さか(坂)のきふき事、びゃうぶをたてたるがごとし」(「御伽草子」)。
「酷 キブシ」(『舊本節用集』印度本(永禄二(1559)年本):「節用集」は、いろは順に語が並ぶ簡便な用字集ですが(「節用集」と呼ばれる本は多数ある)、「伊勢本」「印度本」「乾(いぬゐ)本」は初めに掲載される語が何であるかにより、後世、研究者によりその(古い時代の)「節用集」が分類されたその分類による名です)。
◎「きへなり」
「き」は「きり(切り)」の「り」の脱落。この「きり(切り)」は切断すること。「へなり(隔り)」はその項。「きりへなり(切り隔り)→きへなり」は、切ったように、切断したように、隔(へだ)たっていること。直線距離として遠くなかったとしても(遠い場合もあるでしょうけれど)、切断したように隔たっていること。
「あしびきの山きへなりて遠けども心し行けば夢(いめ)に見えけり」(万3981)。
◎「きほひ(競ひ)」(動詞)
「きひおひおひ(来日覆ひ追ひ)」。「きひ(来日)」は突然日が現れたような状態になること、突然現れた日(太陽)。そして全体がそれに覆われたような状態になりそれを追ふ。全員が自我内部に日が現れそれが膨張したような状態になる。それが「きひおひおひ(来日覆ひ追ひ)」。「Aにきほひ」はAに刺激されそうなる。後世ではこの「きほひ(競ひ)」と「キ(気)」を「おふ(負ふ)」・「きおひ(気負ひ)」(過剰な「気(キ)」を現し)が混乱しているように思われます(下記※)。
「…四方の国よりたてまつる貢(みつき)の船は……楫(かぢ)引きのぼり……あぢ群(むら)の騒ききほひて浜に出で海原見れば……」(万4360)。
「竜田山しぐれにきほひ色づきにけり」(万2214)。
「きほひ馬」は競馬。
※ 「きほひ(競ひ)」と「キおひ(気負ひ)」に関しては「いきほひ(勢ひ)」の項(2019年11月8日)でふれましたが、随分前なので関係部分だけ再記。
「「きほひ(競ひ)」(→その項)は、文部省の仮名遣いでは「きおい」になるわけですが、「きほひ(競ひ)」は「気(キ)負(お)ひ」(文部省の仮名遣いで「きおい」)ではありません。「演技に気負いがある」(演技に自然さがない)や「気負いこんで言う」などの「キおひ(気負ひ)」は別語です(同じ項目で扱っている辞書もあります)。「楚師を敗(やぶり)たるきをいに因て、陳蔡を又敗たぞ」(『史記抄』(1477年))のような「いきほひ(勢ひ)」の「い」が落ちているような「きほひ」もあるのですが、「理非を弁(わきま)へず、慮外を働く奴をば気負ひといふ」(「歌舞伎台本」)などは「キおひ(気負ひ)」」