◎「きざし(兆し・萌し)」(動詞)

「きさし(来射し)」。「さし(射し)」は、「日がさし(射し)」などのそれであり、S音の動感により情況変動感が表現され、その情況変動が自動詞として、現れ、となる(→「さし(射し・差し・…)」の項)。何かの「き(来)」が「さす(射す)」、「きざす(兆す)」、とは、なにごとかやなにものかの到来が感じられる情況になること。到来するわけではない。情況に、当然到来する、という動態変動がある(さらに正確に言うと、到来したわけではないが、到来の記憶が再起する)。

「木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪(あ)へずして落つるなり」(『徒然草』:「つはる」は、思念的に(予感的に)確認される何かの(とくに生命の)居(ゐ)が感じられること。妊娠中に起こる「つはり」もこれ)。

「人がらもいとよき人也とおぼしきざして」(『落窪物語』:そういう思いになったわけではないが、そんな思いが沸いてきた)。

「大乱逆のきざし」。「春のきざし」。

 

◎「きざし(剋し)」(動詞)

「きさし(牙指し)」。この「さし(指し)」は対象感・目標感のある動態にあることを表現し(→「東をさして飛ぶ」)、「きさし(牙指し)」は「き(牙)」の状態で対象感・目標感のある動態にあること。その場合、「き(牙)」はそのまま消え行く状態で一点に集中する形態にあり、その状態で目標感のある動態にあるとは、何かに集中することを意味する。

「府して剋(きさし)念(おも)へば、俄(にはか)に万億却の善因を生ず」(『東大寺諷誦文稿』:集中し、余念・雑念無く心をこめ思えば、ということ。この語は「剋」と書かれ、この字は『類聚名義抄』に「剋 ……キサス キサム」(正確に言うと、「ス」の隣に「ム」とも書かれる)とされる字ですが、この「剋(コク)」は厳しい戦いに打ち勝つようなことを表現する文字であり、その厳しい戦いが際限なく傷をつけるようなこと(ここで言う「キサム(刻む)」)でもあり、それへの努力の集中も表現するということでしょう)。