◎「きさき(后)」

「きさき(来避き)」。「さき(避き)」は「さけ(避け)」の自動表現。「さけ(避け)」の自動表現とは、分けることではなく、分かれること。「きさき(来避き)→きさき」、すなわち、来(き)、わかれる、とはどういうことかというと、来ると(現れると)、遠ざけるのではなく、遠ざかる。そうなること、(人々が)そうなる人、それが「きさき」。畏れ、敬い、遠慮が生じそうなります。なぜそうなるのかというと、大君(おほきみ)との関係においてそうなる。大君との関係において、それと一体化したような関係にある女性がそうなる。すなわち、「きさき(后)」は、原意としては、大君の「つま」と言い得る関係にあることが、大君自身も、そして他の周囲の関係者も、認めている女性を言う。歴史的には女御(ニョウゴ:天皇の私的な身の回りの世話などしていた人)や更衣(カウイ:女御と同じような立場ですが、女御に次ぐ地位の人)などもそう言ったり、王侯貴族の妻を一般的にそう表現したりもします。

「妃 …キサキ」(『類聚名義抄』:原書は「𡚱」になっている)。

 

◎「ぎざぎざ」

「ぎざ」は「ギザハン(ギザ反)」。「ギザハン(ギザ反)」は、「ギ」の音と「ザ」の音の反切ということであり、「ガ」。この「ガ」が「牙(ガ:きば)」を意味し、その連音は牙(きば)の連続を表し、「ギザハン(ギザ反) ギザハン(ギザ反)→ぎざぎざ」は牙(きば)が連なっているような形象を意味する。この語は「ぎじゃぎじゃ」とも言いますが、この「じゃ」は「ジャ(蛇)」であり、「蛇」は「ダ」でもあり(→「ダカウ(蛇行)」「ダソク(蛇足)」)、これは「ギダハン(ギダ反)→ガ」ということか。

・音の似た語に「きざきさ」がありますが、これは「きずやきずや(傷や傷や)」(「や」は詠嘆)であり、満遍なく傷を負うこと・負わせること。傷は切断も生じる。すなわち、全面的に傷だらけにすることされること。

「涙(なみだ)瞼(マナシリニ(マナフタ、という読みも併記されている))千行(チツラ)なり愁に腸(ワタ)、寸(キサキサニ)断(たた)ゆ」(『遊仙窟』)。