◎「かり(借り)」(動詞)
「けゐはり(気居張り)」。「けゐ」が「く」のような音(オン)になりつつ「くはり」は「かり」になった。「け(気)」とは無いが有るなにかであり、「ゐ(居)」はある情況として(たとえば、自分の衣を着た自分として)、そこにあるということ。「はり(張り)」は情況的に現すこと。「けゐはり(気居張り)→かり」は、「け(気)」たる「ゐ(居)」(あるあり方)を「はる(張る)」(現す)ことであり、無いが有るなにかたるあり方としてそこに現れること。たとえば、無いが有るなにかたるあり方として、自分の衣を着た自分を現す。自分の衣を着た自分を現すが、それは無いが有るあり方であり、たしかに着てはいるが、それは自分の衣ではない(終局的に自分に所属していない(ということは、所属主体に所属させる義務をともなっている))。「力を借り」や「権威を借り」といった表現は、「け(気)」のあり方として現れているが終局的に所属していない力や権威で(つまり、終局的に自分の力や権威ではない力や権威で)、ということ。また、この、「け(気)」のあり方として現れているが所属していないことは「かり(仮)」でもある→「仮(かり)の姿」。
「隣の衣をかりて着なはも」(万3472:借りて着なさいな(東歌。方言的変化がある))。
「かれる身そとは知れれどもなほし願ひつ千歳の命を」(万4470:実感的な所属感のない身、仮の身、ということなのですが、こういう表現には仏教的無常観の影響もあるのでしょう)。
「『飴(たがね)成(な)らば、吾(われ)必(かなら)ず鋒刃(つはもの)の威(いきほひ)を假(か)らずして坐(いながら)天下(あめのした)を平(む)けむ』」(『日本書紀』:「假」は「仮」の旧字)。
この動詞は、古くは「かる(借る)」「からず(借らず)」「かれば(借れば)」ですが、後世、「かりる(借りる)」「かりず(借りず)」「かりれば(借りれば)」といった言い方をするようになります。これは「かり(借り)」の後に「ゐ(居)」が入り「かりゐる(借り居る)→かりる」「かりゐず(借り居ず)→かりず」のような表現になっているのでしょう。「ナアニサかすのかりるのといふ事じゃアねへ」(「洒落本」)。
漢字表記は後世では「借り」が一般ですが、古くは「貸り」とも書き、「假(仮)て」と書いて、かりて、「藉る」と書いて、かりる、と読んだりもしました。
◎「かり(仮)」
「かり(借り)」。物や事象や言動に返還の約束拘束の印象があり、帰属感がないこと。→「かり(借り)」の項(上記)。
「にほひなどはかりのものなるに………えならぬにほひには必ず心ときめきするものなり」(『徒然草』:これは人の心は愚かという例)。