「~げあみああし(気余みああし)」。「ああ」は感嘆発声ですが、この場合は、美しい何かに感動したり感嘆したりといったものではなく、倦むような思い、うんざりとする思いを表現する発声です。「あー、いい気持ち」のそれではなく、「あー、いやになる」のそれです。虚無的に飽和な状態、過剰な状態であることを表現する「あみ(余み)」に関しては「あまし(余し)」の項(下記※に再記)。「~げあみああし(気余みああし)→~がまし」は、~の気(け)が虚無的に過剰であり、倦むような、うんざりとする思いであることを表現する。つまり、程度がそれほどでなければ良いのですが、過剰で不快なのです。

「女のすこし我はと思ひたるは歌よみがましくぞある」(『枕草子』:過剰に、歌を詠みたがる)。

「 親と聞こえながらも、年ごろの御心を知りきこえず、馴れたてまつらましに、恥ぢがましきことやあらまし」」(『源氏物語』:親とはいうものの、長年来の心も知らず馴れ親しんでいると出来事としてあまりに恥になることも…ということでしょう)。

「宮腹の中将は、なかに(なかでも宮中のこの御宿直所に)親しく馴れきこえたまひて、遊び戯れをも人よりは心安く、なれなれしく振る舞ひたり。右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は、この君もいともの憂くして(そこへ行くのはなんとなく鬱陶しい思いがして)、 (この中将は)好きがましきあだ人なり」(『源氏物語』:男女関係のこととか、そういうことがとても好きということ)。

「そのあんばいでは、なにも稽古がましい事もやらず、すぐにやってもいいノ」(「滑稽本」:その人がやれば過剰な稽古、不必要な稽古だ…と思われるようなことはやらずにすぐに出ていい)。

「かことがまし」(その項・2月14日)。「をこがましい」(過剰に「烏滸(をこ):馬鹿げた者」)。「押しつけがましい」(過剰に押し付けの印象がある)。「差しでがましい」。「恩着せがましい」。「晴れがまし」(過剰に「はれ(晴れ)」の状態になる。これは、人が、うんざりするというより、むしろその快感に酔う(ふと我にかえり気恥ずかしくなることもある))。

「人がまし」。人として過剰に現れてはいるがそれほどの実態は感じられない。「文三家安(いへやす)…高聲(カウジャウ)に云ひけるは『……』とぞ訇(ののし)りける。相模国の住人渋谷庄司重国、角(かく)云ふは誰そと問(とふ)。佐奈田殿の郎等に、文三家安と答ふ。重国申けるは、『あああたら詞(ことば)を主にいはせで、人がましき』と云ふ」(『源平盛衰記』「石橋合戦事」)。「世の中に少し人に知られ、人がましき名僧などは、このわたり(あたり)に親しきさまなる事は、煩しきことに思ひて、召し仕はせ給へど(召し寄せても)、萬(よろづ)にさはりをのみ申しつつ、たはやすくも参らず」(『栄花物語』)。

 

※ 「あまし(余し)」の語源(再記)

「あき(飽き)」の「あ」のような、飽和的な、それゆえに虚無的な、「あ」による「あみ(余み)」という動詞があったと思われます。その語尾がA音化・情況化しそれにS音の動感が働くことにより、「すみ(澄み)」→「すまし(澄まし)」のように、他動表現が生じた。それが「あまし(余し)」。意味は、何かを、「あみ(余み)」の、虚無感のある飽和的な状態に、すること。虚無感により全的な完成感は破綻しています。動態が飽和しその動態に把握されない状態にする。動詞「あみ(余み)」に関しては、『万葉集』歌番900にある「きるみなみ(伎留身奈美)」は「きるみにあみ(着る身に余み)」でしょう。この部分は一般には「着る身無み」(着る身が無いので(無いと思い)、着る身を無いと見)と解されています。しかし、(子の)着る身が無いので(着る身を無いと見)ダメにされ(無駄にされ:腐(くた)し)棄てられているだろう絹錦、という表現は不自然に思われます。むしろ、(富人の子の)着る身に余りダメにされ棄てられているだろう絹錦、という表現の方が自然です。

「築(つ)くや玉垣(たまかき)築(つ)きあまし…」(『古事記』歌謡94)。

「但し、大将は、もとの重盛ぞ。已前(イゼン)こそもらすとも、今度においてはあますまじ」(『平治物語』:動態が飽和し把握されない状態にするな。逃がすな(捕らえろ、や、しとめろ)ということ)。

「憐みとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかく)して乳を浥(アマセリ)」(「俳諧」:客観的に表現すれば、これは、あふれさせた、ということ)。

「御飯をあます」。