「ゑがほ(笑が秀)」(笑(ゑ)の秀(ひい)で・現れ)、「なきがほ(泣きが秀)」(泣きの秀(ひい)で・現れ)―どちらも「が」は所属を表す助詞。これらは人の動態における「笑(ゑ)」や「泣き(なき)」の特出的現れを表現します。それらが、それらが現れる身体部分の印象となり、その語はそれらの動態や心情が現れるその身体部分「かほ」の連濁の印象になり「かほ」が頭部前面を意味するようになった。「ゑがほ(笑が秀)になる」が「ゑがほ(笑顔)になる」になった。つまり「かほ(顔)」は、元来は、頭部前面たる身体部分を意味するわけではなく、そこに現れる心情、表情を意味したということです。それが身体部分たるそれも意味し、また、対人的・対社会的に印象影響の大きい身体部分でもあり、その人の社会的なあり方・評価、名誉といった意味にもなる→「顔が立たない」「顔をつぶす・顔に泥を塗る(名誉・評価を傷つけたり台無しにしたりする)」。

「『…一(ひとりの)貴客(よきまらうと)有(ま)す、骨法(かたち)常(ただひと)に非(あら)ず。若(も)し天(あめ)從(よ)り降(くだ)れらば天垢(あまのかほ)有(あ)るべし、地(つち)從(よ)り來(のぼ)れらば地垢(つちのかほ)有(あ)るべし、實(まこと)に是(こ)れ妙美(まぐは)し、虛空彥(そらつひこ)といふ者(もの)か』」(『日本書紀』:これは、いわゆる山幸彦が海神の宮のようなところへ行った際、そこの姫が山幸彦を見た印象を言ったものですが、「垢」は『説文』に「濁也」、『正韻』に「塵滓也」と書かれるような字(いま普通に読めば「あか(垢)」)であり、これを「かほ」と読むのは、地の者なら地の残滓、天の者なら天の残滓が人に現れる。それが「かほ」ということか)。

「語らひがたげなるかほして」(『源氏物語』:話をもちだしにくそうな表情で、ということ)。

「『…只今の御身どもは、いろいろの花の袂(たもと)を深く浅くにほはしかをり……御顔(おかほ)はいろいろに彩色(いろどり)給ひて…』」(『栄花物語』:今どきのあなた方は(女は)、ということでしょう。この「顔(かほ)」は身体部分たるそれ)。 

「多胡(たご:地名)の嶺(ね)に寄(よ)せ綱(つな)延(は)へて寄すれどもあにくやしづしその香(か)はよきに(万3411:これは、なぜかほ(顔)」の項の例文に?と思われる歌ですが、それはこの五句は「曽能可抱与吉爾(そのかほよきに:その顔良きに(その顔は良い(美人)なのに)」とされるのが一般だからです(辞書でもこの歌は「かお(顔)」の項の例文になっている)。しかしいわゆる「西本願寺本」ではこの部分の原文は「曽能可把与吉爾」であり、これは普通に読めば「そのかはよきに」でしょう。なぜ原文を変えたのでしょうか。『万葉集』の助詞の「は」の万葉仮名に「把」はなじみがないからでしょうか? 「そのかはよきに」の意味がわからなかったからでしょうか。 しかし、なじみがないからといって他の字に、しかも音の違う他の字に、変えて、それを「原文」と言うのは問題でしょう(美人なのに自分のものにならないくやしい思いを歌った歌、ということにしたかったのでしょうか)。この歌の四句「阿爾久夜斯豆之(あにくやしづし)」は、諸説言われながらも、意義未詳、とされます。これは「ああにくや。しつつうし(ああ憎や。為つつ憂し(ああにくい。やってていやになる))」。そして「その香(か)はよきに(よい香りはさせるのに。その気があるようなことは言い、そんな態度・雰囲気なのに)」。つまり、いかにもその気がありそうな女に綱をかけて一生懸命ひっぱるのだが、まったく来ない。もういやになった、という歌)。