「こあへぬゐす(此和へぬ居す)」。最後の「す」は動詞「し(為)」の終止形。「こ(此)」は具体的な何かを指し示しますが、たとえば「説き、こ…」と言った場合、~を説き、これを、の意になる。「あへ(和へ)」は融合的に一体化することであり、「ぬ」は否定であり、「あへぬゐす(和へぬ居す)」とは、融合し一体化しない存在状態になる、ということ。全体は、たとえば「Aを説きこあへぬゐす(Aを説き此和へぬ居す)→Aを説きかへにす」は、Aを説き、これを(説いたその内容を)融合し一体化しない存在状態になる、ということ。AがBを説いた場合、Bがその説かれた内容に融合しこれと一体化することがない。仏法が説かれた場合、Bは仏法に融合し一体化しない。
この「かへにす」は(とくに仏教経典の)漢文訓読系の特殊な表現ですが、音(おん)が「がへんず」に変化していき、さらに、たとえば「説きがへんじ」と言った場合、説いたことを受け入れたかのような印象にもなり否定の意味が不明になり、そこで否定の意味補強のためさらに否定表現が加わり「がへんぜず」になり、それはあくまでも否定の意味補強であり、その結果「かへにす」も「かへにせず・がへんぜず」も同じ意味という奇妙なことが起こりつつ「がへんぜす」が一般化していきます(つまり、「がへんぜず(かへにせず)」は「かへにす」と同じ意味であり、やはり(たとえば説かれたことに)融合し一体化しない存在状態になる)。
「我が所説の法を信受し不肯(カヘニセ)む」(『地蔵十輪経』元慶七年点:信受することがない、できない、というような意味になる)。
「見不肯脩大乘。方便化以二乘」(『妙法蓮華經玄賛』(七世紀・唐の時代の僧・窺基(キキ)の著。窺基は 玄奘の弟子。当時の経典インド系原語には詳しいでしょう)巻六:「大乘を不肯(かへに)し脩(シウ)す(血肉を失わせる)を見(み)。二乘を以て方便に化(クヮ)す」ということか。「脩」に関しては『説文』に「脯也」、「脯」は「肉乾也」とある。「二乘」は言語に二重の意味をもたせることでしょう(※下記(1))。「方便」の「方」に関しては『廣韻』に「四方也,正也,道也,比也,類也,法術也」とあり「便」に関しては『説文』に「安也」とあり『廣韻』に「利也」とある。つまり「方便」は「安」で「利」な「法術」。この「方便(ハウベン)」という語は、そういう一般的な漢語はあるわけですが、日本では仏教用語として広く普及しました)。
※(1) 『妙法蓮華経』(※(2))の「如来神力品」においても「世尊」と「諸仏」(※(3))が「広長舌」を出しつつ無量の光を放ち、この二つの舌による「二つの音声」により地は六種に震動します。
※(2) この経典の原題は『सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र“(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ):「正しい教えである白い蓮の花の経典」』というものであり、日本では鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『妙法蓮華経(メウホフレンゲキヤウ)』が最も普及しています(訳は他にもある)。その通称が『法華経』。
※(3) この「世尊」と「諸仏」も様々な言い方は可能でしょうし、「釈迦牟尼仏」と「諸仏」、「釈迦如来」と「多宝如来」といった言い方もなされています。ようするにそれは、理想たる、知的認識作用、であり、どちらも「如来」と表現しても問題ない。それは作用体でもあり、それに具体性をもたせつつ賛称で表現すれば「釈迦牟尼」であり、一般的に賛称で表現すれば「仏陀」。それにより、如来から舌が出、如来から舌が出、この二枚の「広長舌」(『妙法蓮華経』「如来神力品」)による「二音声」(『妙法蓮華経』「如来神力品」)が十方に遍く至る。これが釈迦如来の舌で起こる。つまり、ここでの表現自体もその語は二重意になっており、ここでは、理想たる、知的認識作用・作用体、すなわち「如来」が二重意になっている。だからこれは「如来神力品」なのであり、『法華経』とは方便経なのです。