◎「かはら(瓦)」

家が着(き)るための器(へ)たる一片が「きへは(着器端)→か」。この一片を非常に多数敷き詰めた状態の総称が「かははら(か端端ら)」。「は(端)」は全体の中の一部の意。「ら」は情況を表現し、ある情況にあるもの・ことを意味します。これがその一片の名にもなる。家の屋根葺き材の一。古くは、家の屋根は草(かや)や樹木の皮や木の板(短冊のような、薄く小さめの板を非常に多数)で葺(ふ)き、極めて特殊な場合には金属板(たとえば銅板)で葺いたりもしたわけですが、それらが「かはら」にならないのは、材料によることではなく、それらには「は(端)」の定形性、一片の定形性と小ささゆえに独立存在性があいまいだからでしょう。

この語は一般にサンスクリット語に由来すると言われます。しかし、古く、仏教の寺に使われたからということでしょうけれど、瓦(かはら)に、とくにサンスクリット語で表現されるような、たとえば宗教的な、特別な意味性があるとも思われません。

「瓦 …和名加波良 焼泥為之盖屋宇上」(『和名類聚鈔』)。

「屋のうへをながむればす(巣)くふ雀どもかはらのしたをいでいりさへづる」(『蜻蛉日記』)。

『日本書紀』に船の数を表現する「かはら」があります→「八十艘(やそかはら)の船(ふね)に載(のせい)れて」(「神功皇后摂政前・九年十月」)。これは「かいはら(櫂腹)」か。船体が櫂(かい)が出る腹だということ。

 

◎「かはらか」の語源

「かはらはか(瓦努果)」。二つ目の「は」は全音の母音に吸収されるようになくなった。「はか(努果)」は努力の成果を意味します。瓦(かはら)の努力の成果とは、雨を防ぐことその他、瓦が行う努力の成果、という意味ではなく、瓦として世に現れる努力の成果。瓦は粘土を蒸し焼きにして作るものであり、それにより水分が蒸発し凝固する。すなわち「かはらはか(瓦努果)→かはらか」は、水分を完全になくすこと、乾燥させること、そしてその結果たる乾燥している(あるいは、乾燥しきっている)こと、です。語尾の「~らか」には「やはらか」その他のそれの影響もあるでしょう。乾燥している(乾いている)とは、人なら、ものごとにこだわらないさっぱりとした性格であったりし、爽やかさも感じさせる。また、全く母乳が出ない状態であることを「かはらか」といったりもする。

「こと人(異人)のさばかりなりたらむは、ことやう(異様)なるべきを、なほいとかはらかにあて(貴)に(品格良く)おはせしかば、病づきてしも、容貌(かたち)はいる(要る?)べかりけれ、となむ見えし、とこそ、民部卿殿は常にのたまふなれ」(『大鏡』:これは、道隆が、病が重いにもかかわらず、這うようにして御簾(みす)を出、装束をとり、決まった方式通り自ら人にかづけさせたことを言っています。つまり、自分が無様に見えることなどにまったくこだわっていないことを「かはらか」と言っている)。 「かはらかなる顔つき」(『宇津保ものがたり』)も、爽やかな印象、ということでしょう。

この語は動詞「かわき(乾き)」の「かわ」による「かわらか」(「らか」は「なめらか(滑らか)」などのそれ)であるとも言われます。しかし、「かわき(乾き)」の「かわ」は「高(たか)らか」「うららか」の「たか」「うら」のような形容詞語幹や擬態ではなく、それによる「かわらか」という表現は不自然でしょう。