「かね(兼ね)」(動詞)の語源
この「か」は、気づきの語感のK音の交感とA音の情況感・全体感(それゆえの存在感)による内的情況化とでもいうような「か」、動詞「かき」で言えば「(書き、その他)」の、気づきの語感のK音のA音による内的情況化とでもいうような「か」、気づきたるところの脳内における内的交感というような「か」であり、それはただ気づくことを、すなわち現象としての現れを、表現する。この動詞「かね」はその「か」を活用語尾N音により客観的に認了する。その均質感を表現する。それはただ気づき客観的認了を、すなわち現象としての現れを、認了する。つまりこの「かね」は、現象を、印象を、認了することを意味し、認了による均質感の表現が動態の時空的均質感を表現する。たとえば「AはBをかね(兼ね)」は、AはBではない。しかし、AはBを気づきとして現し(AはBの現れとなり。AはBではないがBを書き(現し))それは均質感をもって認了される(「AはBをかね(兼ね)」は、Aは、Bを『か…』にあり、AはBか…にあり、ということ)。
「あらたまの年月かねてぬばたまの夢にそ見ゆる(夢爾所見)君が姿は」(万2956:これは、また今年も(今年も去年かという状態で、もう何年もずっと)、ということ)。
「『……来む世も深き契り違(たが)ふな』。…… 弥勒の世をかねたまふ 行く先の御頼め、いとこちたし」(『源氏物語』:「来む世」「弥勒の世」とは弥勒出現の世であり、五十六億七千万年後。それを「かねた」頼め(頼みにさせること・誓いや約束)を「こちたし」(極端なこと)と言っている。ちなみに『』の部分は普通の台詞ではなく、歌)。
「一身に数芸をかねたれば」(『保元物語』:一身が数芸を均質感をもつて現す)。
「企画と営業をかね」(主体が「企画」と「営業」双方を均質感をもって現す)。「様々な才能をかね備へてゐる」。「キがね(気兼ね)」は、(その「気(キ))」が動態の現れとして相互に矛盾するものであったとしても)複数の「キ(気)」が均質感をもって現れる。