◎「かち(勝ち・克ち)」(動詞)
この「か」は、動詞「かね(予ね)」にも作用する、想的で不定な(個別的具体性のない)提示を表現する「か(彼)」、「かの(彼の)」や「かなた(彼方)」にある「か」、であり、この想的で個別的具体性のない「か」が想的自己、あるはずの、あるべき、自己・事態を表現し、その「か(彼)」の自己としてあり、という表現が「かち(勝ち)」(活用語尾T音で思念的確認がなされる動詞として他に「うち(打ち)」「たち(立ち)」「まち(待ち)」などがある)。すなわち「かつ(勝つ・克つ)」とは自己を維持したということです。この「かつ(勝つ・克つ)」という動詞は、自己維持破壊情況が生じそれへの対応があり結果的に自己破壊の原動因たる相手は敗北したとしても、相手を敗北させることは意味していません。自己を維持することを意味します。この「かち(勝ち・克ち)」は、動詞連用形について、その動態の傾向が強いことも表現します。「あいつはそういうことをしがちだ」。これは原意としては、そうした動態・動態が強固に維持されていることを表現しています。
「則(すなは)ち稱(ことあげ)して曰(のたまは)く、『正哉(まさか)吾(われ)勝(か)ちぬ』とのたまふ」(『日本書紀』:この「まさか」は、疑問も表現する「哉(サイ・かな・や)」で書かれていますが、係助詞「か」と連体形による係り結びではもちろんなく(完了の助動詞「ぬ」は変格活用であり連体形は「ぬる」)、「まさか勝つとは思わなかった」という表現でもない。この「まさか」は万3410にある「まさかしよかば」のそれであり、全体は、いままさに勝った、の意)。
「愛(かな)し妹(いも)を弓束(ゆづか)並(な)べまきもころ男(を)のこととし言はばいやかたましに」(万3486:この「まき」は「誰をしまかむ」(『古事記』歌謡16)にあるそれ。「もころ」は「そのもの」の意であり、「もころを(もころ男)」は、そのものの男・男そのもの。「し言はば」の「し」は副助詞と言われるそれ。どうしようもないような思いでそう言うなら、のような意。あなたを、弓束(ゆづか)をしっかりと堅く巻(ま)くように設(ま)き(巻(ま)き、と、設(ま)き、がかかっている)男そのもののことなら勝てもしようものを…(離れてあなたを思っていると、あなたに勝てない(と涙ぐんだりしているのだろう))) 。
「其の事を聞き已(をは)りて悲しび噎(むせ)びに勝(かち)えず」(『金光明最勝王経』平安初期点:これは自己を維持することが出来なくなっている)。
・この、自己を維持する「かち」に古代の否定の助動詞と言われる「~ましじ」がつくと「ありかつましじ」というほとんど慣用的な表現が生まれます。この「あり(有り)」は時間的全体感をもって何かの動態があることを、或る動態が一般的であることを、その動態が永続的・連続的であることを、表現し、「あり通ひ」は通い続けること。「ありかつ」は自己を維持し続けること。「ありかつましじ」は、そんなことはとでもできない、このままではいられない、ということ。これは「ありかてぬかも(あり克てぬかも)」にある程度意味は似ています。
◎「かち(搗ち)」(動詞)
固いもの同士を打ちつける際の擬音「か」の動詞化。何かを打ったり突いたり叩いたりすることを表現します。「かちぐり(搗ち栗)」(干した栗の実を臼で軽く搗(つ)いて殻や渋皮をのぞいたもの。勝ちに通じる縁起の良いものとして縁起物として扱われたりもします。この搗(つ)く行為が「かち(搗ち)」)。木の実などを棒などで叩き落すことを「かち落(おと)す」と言ったりもする。「搗 …ツク カツ…」(『類聚名義抄』)。