「はかち(努果路)」。「は」の子音退化。「はか(努果)」は努力の成果であり、「ち(路)」は目標感をもった進行を表現し、「はかち(努果路)→かち」は努力の成果たる目的感のある進行、それをもたらす動態、の意。どういうことかというと、たとえば馬に乗る、あるいは他の人が支持し進行する輿(こし)に乗る、といった、他の動物や他の人の努力の成果たる進行ではなく、自己の努力の成果たる進行をもたらす動態、ということです。すなわち、自己の肉体による進行です。通常は、自然動態として、歩く。しかし、厳密に言えば、這っても転がっても「かち」でしょう。そうした動態が「かち」ですが、そうしている人も「かち」と言い、組織や集団の中でそうした進行が義務づけられている人たちが「かち」や「御(お)かち」「かち衆」などと言われることも起こります。後世、武家の時代になると、馬に乗らず徒歩で移動したり合戦したりする兵を「かち」、さらには、下級武士(城の警護などした)を「かち」や「おかち(御かち)」と言ったりします。

 

「馬買はば妹(いも)歩行(かち)ならむよしゑやし石は踏むとも吾(あ)は二人行かむ」(万3317:「よしゑやし」は、理由だの原因だのということはもう終わっている(そんなことは考えなくていい)、ということ)。

「ある時思立(おもひたち)て、たたひとり(ただ一人)かちよりまうでけり(詣でけり)」(『徒然草』:歩いて参拝に行った)。

「歩 アユム…ユク…アリク カチ」「寸歩行 カチヨリユク」(以上『類聚名義抄』)。

「二人の少(をさな)き人顔を差挙(さしあげ)て、『是(これ)はなう母御何(いづ)くへ行給ふぞ。母御の歩(かち)にて歩ませ給ふが御痛敷(をんいたはしく)候。是(これ)に乗らせ給へ』」(『太平記』「越前牛原地頭自害事」:越前・牛原の地頭でもあった北条時治が、足利尊氏が1333年に京の六波羅探題を陥落させた際、連動的に衆徒に襲われ、自害するのだが、その際、その妻と幼い子二人は入水自害し、その際、二人の子を櫃(ひつ)に入れ乳母二人に舁かせその脇を母が歩みつつ自害の地へ向かい、川岸で櫃の蓋を開けると二人の幼い子が櫃から顔を出し例文のように言ったという)。