「かたたち(形立ち)」。「た」が一音無音化した。「かた(方・型・形)」はあり方であり、理想(抽象的)・一般的に「それ」たる、あり方(手)の情況にあること・もの(→「かた(方・型・形)」の項・3月13日)。「たち立ち)」は発生感を表現し、何かが発生し現れる(→「たち(立ち)」の項)。つまり、「かたたち(形立ち)→かたち」は、理想(抽象的)・一般的に「それ」たるあり方が現れている、ということ。理想(抽象的)・一般的なそれが具体化・具象化しているということ。そういう現れたるもの・ことが「かたたち(形立ち)→かたち」。理想(抽象的)・一般的に「それ」たる、あり方、あるべきあり方が具体的・具象的にそこにある。古くは「かたちある女」(『源氏物語』)と言っただけで(見た目の)美しい女を意味したりしました。視覚的な印象を言うことが多いですが、動態や社会的なあり方に関しても言います。人のすることが一般的な形式を整えるだけの印象になると「かたちばかり」と言われたりもする。

「天地(あめつち)の中(なか)に一物(ひとつのもの) 生(な)れり、狀(かたち)葦牙(あしかび)の如(ごと)し」(『日本書紀』:この「かたち」は具体化・具象化した存在、のような意。「あしかび(葦牙)」に関しては下記※)。

「やくやくに(徐々に)容貌(かたち:可多知)つくほり」(万904:容貌が骨ばるようにやせ細っていった)。

「……郡司(こほりのみやつこ)及(およ)び百姓(おほみたから)の消息(あるかたち)を巡察(み)しめたまふ」(『日本書紀』:この「かたち」は生活情況、暮らしのありさま)。

「すべてかしこに仕うまつるべき女、かたちども、仁寿殿にさぶらふべき用意してあり」(『宇津保物語』:これは「かたち」と言っただけで見目の良い人を意味している)。

 

※ 「あしかび(葦牙)」は2019年の3月に取り上げたのですが、随分前ですので再記します。さらに、これは簡単にお読みになるとは思いますが、ここで言っていることは世界の創世、宇宙の創世、天地創造であり、実は非常に重要なことです(「私はなぜここにいるのか」「世界はなぜあるのか」の問題です)。

◎「あしかび(葦牙)」

「あはしかみひ(淡然見火)」。淡(あは)いが確かに見える火(光)。『古事記』の「あしかびの如(ごと)く萌(も)え騰(あが)る物(もの)に因(よ)りて成(な)れる神(かみ)の名(な)」という表現にあるものですが、ここで希薄だが確かにある光があらわれたのでしょう。これは『古事記』でも『日本書紀』でも「葦牙」と表記されますが、この表記はその時点でこの語の意味が不明になっており、「かび(黴)」という言葉が何かが湧き芽生えるような印象をあたえ、葦(あし)の牙(きば:これで芽(め)を表現した。葦の芽は牙のような形をしている)と書かれたのでしょう。

「宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのみこと)」(『古事記』神名)。

 

日本の神話(『古事記』)では、まず「なか(中)」があり(「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」があり)、つぎに「むすひ」があり(「高御產巢日神(たかみむすひのかみ)・神產巢日神(かみむすひのかみ)」があり)、そして「あはしかみひ(淡然見火)→あしかび」(「宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのみこと)」2020年7月11日)があります。ここで淡いが確かにある光が現れた。

『旧約聖書』では「ג וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַיְהִי־אֹור(ヴァヨーメル エローヒーム イェヒー オール ヴァイェヒー・オール:エロヒムは言った。『光、あれ…』すると光があった)」(『旧約聖書』「創世記1:3」)。

これは、「エロヒム」とは、といったことを書きだすと、世界の歴史を叙述するような事態になるのですが、それはここで書くようなことではありませんので書きません。ただ、日本の神話ではそうなり、『旧約聖書』ではそうなっているということだけは記憶しておいてください。「אֱלֹהִים (エロヒム)」とは、素朴な言い方をすれば、言語神です(あくまでも、素朴な言い方をすれば。事態はもっと深刻です)。ですから、まぁ、ここで扱っている語源と関係がないわけではありません(面倒くさいことになり、日本語の語源どころではなくなるのでここでは触れませんが、「אֱלֹהִים (エロヒム)」という語にも語源はあります。なぜそれが面倒くさいことになるのかというと、唯一絶対神信仰の発生起源とか、言語音が脳ニューロンにどういう反応を起こすかとか、そういう話になるからです)。