◎「かからはしもよ」

「万800」にある表現。「黐鳥(もちどり:鳥もちにかかっている鳥)のかからはしもよ(可可良波志母與)」とあります。

これは「かくありあはししいむよよ(斯く有り合はしし斎む世よ)」。

「かく(斯く)」は、このように。「このように」とは、その前に言っている「父母を見れば尊し 妻子(めこ)見ればめぐし美し」。

「ありあはしし(有り合はしし)」の最後の「し」はいわゆる過去の助動詞「き」の連体形(この場合は過去というよりも完了)。「ありあは(有り合はし)」の「あはし(合はし)」は「あひ(合ひ)」の他動表現であり、「ありあは(有り合はし)」は、斎(い)むべきなにものかがそのようにした、の意。

「いむよよ(斎む世よ)」の最後の「よ」は感嘆・感銘の発声「や」がO音化し目標感をもったような、何かを確認的に強調する「よ」(→「これらこそ、あるべきことよ」(『大鏡』))。

全体の意味は、斯(か)くの如(ごと)きめぐりあひの斎(い)むべき、つつしむべき、世なのだ(それが世というもの、この人間世界というものなのだ)、ということ。

その前にある「黐鳥(もちどり:鳥もちにかかっている鳥)の」は、黐(もち)にかかった小鳥のように逃れがたく、ということ。

この万800は家庭を、すなわち妻子を、かえりみず俗世を棄てたような、宗教的に陶酔したような、生活を送っている男を諫めた山上憶良の歌。

 

万800の全文を書きましょうか。

「父母(ちちはは)を 見れば尊(たふと)し 妻子(めこ)見れば 愛(めぐ)し愛(うつく)し 世の中は かくぞ理(ことわり:それが自然の理だ) 黐鳥(もちどり)の かからはしもよ(人である以上逃れることなどできない) ゆくへ知らねば(行方も知らずに(どうなるかもわからずに)) 穿沓(うけぐつ:穴の開いたボロ靴)を 脱(ぬ)きつるごとく (その人の世を)踏み脱きて 行(ゆ)くちふ(行くという)人は 石木(いはき)より なり出し人か(人の情のあるものか(人間ではない)) 汝(な)が名(な)告(の)らさね(お前の名を言え) 天(あめ)へ行(ゆ)かば(天へ行くなら) 汝(な)がまにまに(お前の自由に) (人の住む)地(つち)ならば 大君(おほきみ)います(そこには敬うべき人の世の権威がある) この照らす 日月(ひつき)の下(もと)は 天雲(あまくも)の 向伏(むかふ)す極(きは)み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食(を)す(権威により治められる) 国のまほらぞ かにかくに(あのようにもこのようにも) 欲しきまにまに(勝手気ままに…) しかにはあらじか(そうではないか?)」(万800:「たにぐく」に関してはその項)。

 

かがよひ(動詞)

「かげあやおひ(光文覆ひ)」。「かげ(光)」「あや(文・綾)」に関してはそれぞれの項。「かげあやおひ(光文覆ひ)→かがよひ」はその「かげあや(光文)」が目を覆う(目に浮かぶ)。

「ともし火の影にかがよふうつせみの妹(いも)が笑まひし面影に見ゆ」(万2642)。

「石隠りかがよふ珠(たま)」(万951)。