K音の交感による気づき感とA音の全体感により、気づきの、全体感の、それゆえの完成感の、ある情況感が表現される。気づきとは理性的な客観性を帯びた自覚ですが(つまり、自覚それが交感。対象たるものごととの交感)、「か」が単純にそれを表現する場合もある→「そうか…」。情況によってはその自覚は深い感慨を伴うこともある。理性的な客観性を帯びた自覚には人間は自動的に記憶や思考が発動する。思念的(推量・推想的)に、そして反省的に、考えることを表現する「か」も生じる→「そうか?」。考えることを表現することは疑問を表現することでもあり、疑問の表明は質問でもある→「行くか?」。「これは酒か?」。

「(妻子を)穿沓(うけぐつ)を脱きつるごとく踏み脱きて行くちふ人は岩木より成りでし人か」(万800)。

「荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさぬ」(万3861)。

理性的な客観性を帯びた自覚表現たる「か」に、思考の発動、疑問・否定・非難、そして諦(あきら)め、といったことも含め、その自覚表現たる「か」に様々な思いや心情が込められた、詠嘆・感慨的な「か」もある。

「うれたくも鳴くなる鳥か」(『古事記』歌謡2)。

「うつせみの世にもにたるか花ざくら…」(『源氏物語』)。

「これがあの有名なAさんか…」。

 

この「か」によって気づきや疑問を(つまり言いたいことを)先に言うという表現がある(つまり倒置表現)→「一つ松いく代か経ぬる」(万1042:幾世代だろう、経ているのは)。「いづれの山か天に近き」(『竹取物語』:どの山だろう、天に近いのは)。「経ぬる」「近き」は文法的に「連体形」と言われ、「か」があると連体形で文が終わる印象があるので、これは「か…(連体形)」の「係り結び」と呼ばれている。「か」が文の結びにかかっている印象があるからであり、この場合の「か」を(文末にかかわっている助詞という意味で)「係助詞」と呼ぶ。同じように係助詞と呼ばれているものに「ぞ」「なむ」「や」「こそ」などがある。ただし「こそ」は結びは「已然形(イゼンケイ)」(たとえば「言へ」や「有れ」など)と呼ばれている。

「荒津(あらつ)の海 潮干(しほひ)潮(しほ)満(み)ち時はあれどいづれの時か吾が恋ざらむ」(万3891)。

「何を怨めしき所としてか然(し)かせむ」(『続日本紀』宣命)。