◎「おれ(己・俺)」
「おのれ」の「の」の脱落。一人称・(相手への同一視が起こり)二人称にも用います。二人称にも用いるというよりも、「おのれ」は自己を客観的に表現した語であり、その客観性が二人称になり、その音略たる「おれ」は侮蔑的ではないが尊重性はない二人称となり、それがその語、謙譲的な一人称になった(二人称の「おれ」の方が古くからあります)。
「道臣命(みちのおみのみこと)…大久米命(おほくめのみこと)の二人、兄宇迦斯(えうかし:「うかし」は人名)を召(よ)び罵詈(の)りて云(い)ひけらく。『伊賀(いが:汝が) 此二字以音 作(つく)り仕(つか)へ奉(まつ)れる大殿(おほとの)の內(うち)には、意禮(おれ) 此二字以音 先(ま)づ入(い)りて、其(そ)の仕(つか)へ奉(まつ)らむとする狀(さま)を明(あか)し白(まを)せ』」(『古事記』:この「意禮(おれ)」は二人称であり、お前、のような言い方)。
「『ほととぎす……おれ鳴きてこそ、我は田植うれ』」(『枕草子』:これも二人称)。
「衣類もなく、おれが十三の時、手作のはなぞめの帷子(かたびら)一つあるよりほかには、なかりし」(『おあむ物語』(1700年代初期頃成立かと言われる):これは一人称。そして女性。古く、男女を問わず一人称として「おれ」と言い、江戸時代に女性が用いる「おれ」は謙譲的な一人称であり、後世、男が言う一人称たる「おれ」のような粗雑な印象はありません)。
「『おれは男だ!』」(1900年代後半の漫画のタイトル)。
◎「おれ(疎れ)」(動詞)
「おろ(粗)」の動詞化。空虚な情況にある、緻密さ・充実感の無い、手抜かりのある状態であることや、痴呆的というわけではないが、何かにうっとりしてしまっているような状態であることを表現する。
「かしこがり給へど、人の親よ、おのづからおれたることこそ出でくべかめれ」(『源氏物語』)。
「花におれつつ聞(きこ)えあへり」(『源氏物語』)。