「おのとゐ(己と居)」。「とゐ」が「づ」になっている。己(おの)とある有り、(あらゆる主体において)私とある有り、の意。「おの(己)」はその項。こうした助詞「と」の用い方に関しては「おとな(大人)」や「おと(音)」の項。何らかの事象が「(あらゆる主体において)私とある有り」であるとは、その事象に他者の主体性がないということであり、他者にそうされているのではなく、「おの(己)」がそうしているということです。「おのづから(自づから)」や「おのづと(自づと)」という表現がなされる。
「是(この)後(のち)に生(あ)れし五柱(いつはしら)男子(をのこご)は、物實(ものざね)我(わ)が物(もの)に因(よ)りて成(な)れり、故(かれ)、自(おのづか)ら吾子(あがこ)ぞ」(『古事記』:素材は我が物だからそれが吾子(あがこ)であることが「(あらゆる主体において)私とある有り」となり、「自然」という主体において「私とある有り」の状態になる)。
「よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふをおのづから人も聞くにこそあれ」(『徒然草』:その人に聞かせているわけではないが、その人が他者に聞かされるという関係なく聞く)。
「わざと消息(セウソク)し(便りし連絡し)、呼び出づべきことにはあらぬや。おのづから端つ方、局(つぼね)などに居たらん時も言へかし」(『源氏物語』:(そうしろと指示されるなどの)他者の関与なく局(つぼね)などに居たらん時)。
その「おのづから」の事象を推想されたり仮定されたりする場合もある。自然の成り行きとしてそういうことがあったら、ということ。「かくても、おのづから若宮など生ひ出で給はば、さるべきついでもありなん」(『源氏物語』:もしかして若宮が生まれなどしたら…)。「をのづから後迄わすれぬ御事ならば、めされて又はまいるとも、今日は暇(いとま)をたまはらむ」(『平家物語』)。
「おのづと子供ごころに成て立噪(たちさわ)ぎ」(「浮世草子」『好色一代男』)。『かたこと』(1650年の方言俚語辞典。著者は俳人)という書ではこの「おのづと」という表現は「とかくよきこと葉とはきこえ侍(はべ)らず」と言っている。