「おのをに(己を煮)」。自分で自分を煮ること、そのような状態になった人、そのような状態になった心情の想像的一般的擬人化。それは目をむき、角が生え、牙があり、全身は煮えたぎったように赤い。「鬼(キ)」は中国語で亡霊のようなものを意味し、本来は「おに」とは無関係な当て字です。「おにゆり(鬼百合)」は赤い百合。「仕事の鬼」は全身が煮えたぎったように仕事に打ち込む人。「鬼ごっこ」の鬼は「こら!」と真っ赤な顔をして子供を追いかけて来る親父(おやぢ)のイメージ。「おのをに(己を煮)」という意味での、いうなれば一般的な意味での、「おに」という言葉は相当に古くからあるのでしょうけれど、やがて、この「おに」は、通常の人間ではない異形のものともなり、平安時代の浄土思想、それに対応する地獄の思想、そこにいる罪人(つみびと)たる亡者を監視する獄卒のイメージにも重なります。それは罪人に煮えたぎったような怒りを表したのでしょう。また、「恐ろしいもの」という漠然としたイメージから、様々な禍(わざはひ)をもたらす邪気(悪しきもの、「もののけ」の「もの」)のイメージにも重なり、邪気を逐(お)ふ「ついな(追儺)」・節分の行事にも現れ、後には「鬼は外」と豆で逐(お)はれることにもなります。「鬼は外」は「ついな(追儺)」・節分の行事によるものですが、その言葉の本来の意味だけを言えば、心が煮えたぎったようになりとげとげしく暮らさず、平安ににこやかに暮らそう、そんな生活になりますように、という意味になります。節分で鬼に豆を打ちつけるのは「まめ(実直)」な生活が一番、ということでしょうか。

「鬼 ……和名於爾(おに)」(『倭名類聚鈔』)。この『倭名類聚鈔』には「おに」の語源に関し「或説云於邇(おに)者隠音之訛也」(ある説では於邇(おに)は「隠」の音(オン)の訛(なまり・変化)であるという)とあり、この語源説が相当に有名なわけですが、「隠」には、かくれる、さらには、おだやか、といった意味があり、歴史的な「おに」の現れとはだいぶ異なります。

「神……カミ オニ タマシヒ」「魔……オニ ココメ タマシヒ」「鬼……オニ」(以上『類聚名義抄』:900年代後半には「おに」という語はこうした印象になっている。「ここめ」は「醜女」であり、黄泉の国へ行ったイザナキノミコトを追ってきたあの一群の死霊のようなものたち。「『吾(あれ)に辱(はぢ)見せつ』」(『古事記』)と憤怒し呪いに満ちたようなそのものたちが「おに」と言われたということか)。

 

※『万葉集』では「鬼」はほとんどの場合「もの」と読まれています(7巻1350、1402、11巻2578、2717、12巻2947、2989、その他)。「しこ」と読んでいるものもある(2巻117、12巻3062)。

『日本書紀』では「吾(われ)、葦原中國(あしはらのなかつくに)の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ」(『日本書紀』神代下の始めの部分)などは「もの」と読まれている。「此(これ)桃(もも)を用(も)て鬼(おに)を避(ふせ)ぐ緣(ことのもと)なり」(『日本書紀』神代上:イザナキノミコトが黄泉の国へ行った部分の一書)では「おに」と読まれていますが、ここで「鬼」と書かれているのは黄泉の国の死霊のような者たちであり、漢語の影響でそう書かれたのでしょう。