語頭の「おと」は音(おと)。次の「たな」は「たなぐもり(たな曇り)」(一面の曇り)などにあるような、全域が埋め尽くされたような状態であることを表現する「たな」。次の「ばた」は「はたはたがみ(はたはた神):雷神」にある「はた」であり、雷鳴を表現する「はた」の、前音「な」の影響や濁音化によるその語感強化。「おとたなばた」は、音は世界に轟き渡る雷鳴、の意。これは『古事記』(『日本書紀』にも酷似した歌がありますが、ここでは『古事記』のもの)の歌謡7にある表現(その歌では「おとたなばたの」になる)ですが、この歌は二重のイメージが表現されたものになっています。その前の句にある「あめなるや」は「天鳴るや」(天上から轟きが響くやいなや)(雷鳴が轟くやいなや)。そして「おとたなばたの」があり、歌のその後は。

「うながせる」―一意は、動詞「うながし(促し)」に助動詞「り」がついたその連体形。もう一意は、動詞「うなぎ(項ぎ)」(首に何かをかけること)の尊敬表現(そして使役の語感が生じる)「うながし(項がし)」に助動詞「り」がついたその連体形。一意の「促し」は世界を促している。他の一意の使役の「うながせ(項がせ)」は自然力のようなものがなにものかの首にかけさせる。

「たまの」―「魂の」と「玉の」。

「みすまる」―「見澄まる」(澄み、に自発その他の助動詞「れ」がついたその終止形)と「御統(みすまる):玉を緒に通し輪状にしたもの」。

「みすまるに」―「見澄まるに」と「御統(みすまる)に」。

「あなだま」―「あなとあま(あなと天)」(あな、は驚愕感嘆。天が驚くべき状態になっている)。

「はや」―「ああ…」(感嘆)。

「みたに」―「みつやに(見つやに)」(見たかと思うような状態で)。

「ふたわたらす」―「二つの世界をお渡りになる」(「わたらす」は「わたり」の尊敬表現)。

「あぢしきたかひこねのかみぞ」―これは神名を名のっている。この神名は「あは(感嘆発声)ぢ(路)しくひ(敷く日・領く日)たか(高)ひ(日)こ(子)ね(根)」でしょう。

つまり、世界に轟き、見たのだろうかと思うようなうちに二つの世界を渡る驚愕的な出来事と、一瞬のうちに世界を澄みわたった光に満ち溢れさせる雷鳴雷光と神秘的に権威も象徴し美しく澄みわたった玉(御統)のイメージが重なっている。この歌は「天鳴るや 音たなばたの促せる 魂の 見澄まる 見澄まるに あなと天(あま) はや 見つやにふた渡らす」が元来のものなのかも知れませんが、二重の意味が読めイメージが重なっています。そのほか「はや」は「早」にも「ふたわたらす」は「二度渡る」にも読める(そう読めるということは、昔もそう聞きそう理解した者がいたかもしれないということです。この歌は『日本書紀』では奇妙な歌が添えられているのです)。そしてこの歌に続いて天孫降臨に路を拓く建御雷(たけみかづち)の神が現れます。つまりこの歌は建御雷(たけみかづち)の神の現れを予兆するものであり、同時に天孫降臨の予兆の予兆のようなものになっています。今も多少触れたように、『日本書紀』の「一書」ではこの歌とともに「あまさかる(天離る)……」という、何も知らない女を網で巧みに捕らえようとしているような歌が書かれています。これは、「光儀華艶」な「味耜高彦根(あじすきたかひこね)」 (これが『日本書紀』での神名。「すき」は「すき(次)」(その項参照)。ここでは「あはぢ」に控えるもの、その現れにけして主役ではなくそれに助力する補助的なもの、の意) が人の心をとらえるという俗信・俗伝により紛れ込んだものでしょうし、また、二重にイメージの重なった歌なんて、気づかないところで人を捕らえようとするようなものだ、という、あまりに技巧的であることへの反発から前記の歌とともに「あまさかる……」が歌われこれをからかうということも民衆の中ではあったのかも知れません。