「おきつどり(沖つ鳥)」。「つ」は助詞。沖の鳥、ということなのであるが、この言葉が『古事記』の歌、大国主命の歌と日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)の歌、にあり、それはどちらも、遥か彼方の遠い憧れを夢見るような心情を表現しています。穂穂手見命の歌(『古事記』歌謡9)の場合は、まさに海の彼方を見つめているのですが(→「かもづくしま」の項)、大国主命の歌(『古事記』歌謡5(下記※))の場合は、「沖つ鳥胸(むな)見るとき」と歌われ、現実にではなく、自分の胸にそれを見る、憧れや夢の世界へ入り込んでしまっているような状態になっていることが表現されています。『万葉集』の歌にある「おきつどりあぢふ(味経)の原」(万928)の「あぢ」は「あはぢ(あは路)」であり、「あは」と感嘆するその感嘆へ向かう方向感が表現され、この、感嘆への方向、感嘆への路(みち)が「おきつどり」で修飾的に表現されています。

つまり、ここでの問題は、語源というよりも、その意味。「おきつどり(沖つ鳥):沖の鳥」が、とりわけ『古事記』歌謡9で、何を、どういうことを、表現しているのかというその意味です。

 

※ この『古事記』歌謡5は長い歌ですが、そこにある「はたたぎ」は「畑田着」であり、(汚れてもよいような)野良着です。歌は、「沖つ鳥胸(むな)見る」状態になっている妻が、どの服も、こんなもの野良着にさえふさわしくない、野良着だってこれよりましだ、などと言って気に入らず、そんな妻に夫が、私がここを去ったらお前は泣くぞ、と言っている歌です。つまり、テーマは、遥か彼方を夢見るような世界にいることで、遥か彼方の美しい世界にいることで、現実が自分にふさわしくないと思ってしまう(現実には不足しか感じない状態になってしまう)危険性、それにより現実が、満ち足りない、不平・不満に満ちたものとなり、日々、不足、不平・不満を抱いている状態になってしまう危険性、ということです。