「いえぬら(癒えぬら)」。「ら」のR音は退化した。「いえ(癒え)」は母体の、生命の、回復を表します。「ぬら」は濡れた柔らかな印象の擬態。単に「え(胞)」とも言います。「いえぬら(癒えぬら→えな(胞衣)」は出産後に体外へ出される胎児を包んでいた膜や胎盤などを言いますが、これはそれらの総称です。「えな(胞衣)」という内臓器官があるわけではありません。産後、昔はこれを埋めた「えなづか(胞衣塚)」がありました。それは埋葬ではなく人が生まれためでたいことなので、地に納めた後、その場一同の者は皆で笑うという作法がありました。胞衣塚は各地にありますが、有名なところでは、大阪市中央区に「胞衣塚大明神」(豊臣秀頼の胞衣であり、神格化している。またこれは「よなづか」と言われている。関西というか、西の方では「よな」という言い方も多い。これは「いえおのぬら(癒え己ぬら)」か。子を生み、もはや不用となった自己の体内のそれを排出し癒える「ぬら」)があり、東京都文京区の根津神社には徳川六代将軍・家宣(いへのぶ)の胞衣塚があります。

 

「え(ye)な(胞衣)」に関しては『日本書紀』の「島生み」にある「以淡路洲為胞」の「胞」の読みが問題になります。これは「淡路洲(あはぢのしま)を以(も)て「えな」と為(す)」であり、この「えな」は「いひえのは(言ひえの端)」でしょう。「え(e)」は驚きを表現します。『古事記』に「えをとこを」などと言う場合の「え」です(→「えをとこを」の項)。「言ひ『え』」とは、言って驚くべきこと、言語に絶した驚愕すべきこと、であり、奇跡です。その「言ひ『え』」の「は(端)」とは、奇跡の端緒であり、奇跡の始まりです。すなわち「以淡路洲為胞」(淡路洲を以て「えな」とす)の全体は「淡路洲をもって奇跡の始まりとした」の意。この「いひえのは」が「えな」と伝えられ、「胞衣」を意味する「えな」に影響され、島生みなので出産に関係がありそうだということで「胞」の字が用いられたのでしょう。この表現は『日本書紀』にはありますが『古事記』には無い。これは当初からあった表現ではないでしょう。なぜなら、この表現は「島生み」の印象・評価を表現したものであり、島生み自体ではないから。このような表現が加わった伝承もあったということです(それにより伝承や叙述に混乱も起こっている:下記※)。

※ 『日本書紀』「島生み」の、一書ではなく、本文に、「先(ま)づ淡路洲(あはぢのしま)を以(も)て胞と爲(す)、意(みこころ)に不快(よろこ)び不(ざ)る所(ところ)なり、故(かれ)、名(な)づけて淡路洲(あはぢのしま)と曰(い)ふ」とありますが、これは、『古事記』にある、「水蛭子(ひるこ)」がまず生まれてこれを流すという伝承に影響されつつ(胞衣はもはや内容の無い、流すものでもあり)「淡路(あはぢ)」を「吾恥(あはぢ)」と語呂合わせした『日本書紀』編集者の編集叙述によるものでしょう。