◎「うゑ(飢ゑ)」 (動詞)

「うひへ」。空虚感を表現する「う」。「うみ(倦み)」の「う」などと同じ。「ひ」は感覚的に触れる(感づく)語感のH音(「H音の感覚感」下記※3)にI音の進行感が生じているものであり、これは遠心性の進行感、衰えたり遠ざかったりする進行感、を表現し、小ささや弱さなどを表現する(ようするに、自己が喪失していくような感覚的動態です)。「ひよわ(ひ弱)」その他の「ひ」(下記※1)。「へ」は「経」。「ひへ(ひ経)」→「ゑ」が元来は食物が足りず衰弱した状態を表現したものでしょう(下記※2)。そこに、「ゑ」の一音化により衰弱感を表現する「ひ」の語感が失われたことから、空虚感を表現する「う」が加わり「う」の状態で「ゑ」だという表現が現れるようになった。「水にうゑ」「気がうゑ(気が衰弱し)」という表現もあります。

※1 この「ひ」が衰弱を表現し飢えの状態にあることも表現しています→「ひじに(ひ死に):餓死」、「ひだるし」(飢えていること)。

※2 「飯(いひ)にゑて(飢て:惠弖)臥(こや)せるその旅人(たびと)あはれ」(『日本書紀』歌謡104)。

「吾(われ)よりも貧(まづ)しき人の父母は飢(う)ゑ寒(こ)ゆらむ」(万892:この「寒」は「こごゆ」とも読まれています)。

 

※3 この「H音の感覚感」という言い方は(子音には全部感覚感はあるだろう、という意味で)非常に曖昧ですが、「H音の感覚感」とは、環境との交感、原因に自己確認なく(原因が自己という確認なく)起こる交感、であり、それが「ふれ(触れ)」の「ふ」でもあり、何もない状態が、なにか有る、という状態になる発生感でもあり「ふ(生)」の「ふ」でもあり、環境全的にそれがあれば「はひ(這ひ)」(→「けはひ(気這ひ・気配)」)にもなるということです。そして遠心的進行性のあるI音による「ひ」は、自己が喪失していくような、小ささや弱さや衰力していく状態などを表現する。

 

◎「うゑ(植ゑ)」(動詞)の語源

「埋め」の「う」に同じ「ゐ(居)」のU音化、それによる客観的動態化の語感のある「う」。語尾の「ゑ」は、「う(居)」がそのままE音化し外渉感を生じています。すなわち「うゑ(植ゑ)」は、何かを「う(居)」の状態の、そこに居(ゐ)そこで生活する状態の、「う(居)」にするということであり。そこにその存在状態で存在させるというような意味。

「人の植(う)うる田は植えまさずいまさらに国別れして吾(あれ)はいかにせむ」(万3746:世の人は田植えをしたが、あなたは(つまり、私たちの田は)田植えをなさらず(つまり、私たちの田は田植えをせず)、あなたのいない現実が切実に感じられ、私はどうすればよいのだろう…。これは、理由は不明ですが、流罪になった中臣朝臣宅守(やかもり)という人の妻の歌)。