「う」は、「浮く」「売る」「生む」に共通する、目標感のある「お」にU音による遊離した動態感が生じ動的遊離感を表現する「う」。「へ」は「経」であり、経過感を表現します。すなわち「うへ(上)」は、何らかの対象(ものでもことでも)があった場合、それに関し遊離した動態感・発生感の経過を経た情況がものに関してもことに関しても言われ、その表面(「氷のうへを滑る」)、を表し、表面感は中心感とは逆方向、すなわち上方も表現し(「うへへ上(あ)がる」)、また、発生感の経過情況にあること(「覚悟のうへ」)も表現します(それが社会的な経過情況であれば「みのうへ(身の上)」、「人々花のうへも忘れて」(花のことも忘れて))。そこで表現される語感はその対象に関する経験感にとどまらず進行していくことも表現します(「現物を見たうへで…」、「かくなるうへは…」(こうなった以上))。この「うへ(上)」が対象たる点の地球中心点から地球表面へ向かう方向の点を意味するのはそれが遠心的表面の印象のある方向だからです。古くはこの「うへ(上)」には「うら(裏・心)」が対応しましたが、のちにはもっぱら「した(下)」が対応するようになります。「蓮葉(はちすは)のうへはつれなきうらにこそ物あらがひはつくといふなれ」」(『後撰和歌集』:「うへ」と「うら」が対になっているということなのですが、この歌は蓮葉の裏(うら)を見ろ→うらみ(恨み)ということか)。
「大船(おほふね)のうへにし居(を)れば…」(万3898)。
「誰やし人もうへに出てなげく」(『日本書紀』歌謡97:嘆きを内に抑えておくことなどできず表して、の意)。
「西国(にしくに)のおもしろき浦うら磯のうへをいひ続くる」(『源氏物語』:おもしろき浦うら磯のことを言い続ける)。
「父母もうへはなさがり」(万904:表面的には、という意味ではありません。この「うへは」は「かくなるうへは」のそれであり、「さがり(下がり)」はひくことであり、「うへはなさがり」(「な」は禁止)は、最終的な結果は引くことはならず、(子供の)命に従わざるを得ず、ということでしょう)。