◎「うて(打て)」(動詞)の語源

「剥ぎ」(他動)・「剥げ」(自動)のような、「うち(打ち)」(他動)の語尾E音化。そのE音によって外渉性(外的対象・環境との係わり感)が生じるのですが、「うち(打ち)」の「う」は「え(得)」がU音化した動態表現性があり、「う」自体に外渉感があり(「うち(打ち)」による帰属の自己認容の思念的確認は常に「何か」に対しなされるということ。常に「何か」の帰属が確認されるということ)、「うて(打て)」はその外渉感にもう一度外渉感が生じた表現になります。外渉的な動態がさらにもう一度外渉的な動態となった場合どういうことが起こるかというと。反転するような動態が表現され、それは受け身表現となります(下記※)。すなわち、「うち(打ち)」の自動表現「うて(打て)」が「うち(打ち)」の受身表現「うたれ(打たれ)」と同じような意味になる。その場合、動詞「うち(打ち)」は何かを現実化することを意味し、その受け身(現実化される)、とは、逆に言えば自分の現実感がなくなったり衰弱したりするわけであり、「うて(打て)」は、存在感が敗北するというか、負けたり、気落ちしたり、植物ならしおれたり、何かが腐ったりする。現実に物的に打たれることも意味する(現代的な表現で言えば、「やられ」が最も近いのではないでしょうか)。また「心をうち(圧倒し)」のような意味でその受け身「うて(打たれ)」が言われた場合、その否定の「うてぬ(顔)」は、圧倒されない、もっともだと思われない、というような(顔)。「うてず」は、納得いかない奴(やつ)、のような意。

 

「圧(おし)にうてて死にけり」(『太平記』:「おし(圧し)」は罠。それに押しつぶされるような状態になった)。

「又よりあひて取るに、此のたびは壇光うてにけり」(『古今著聞集』:力や存在感において圧倒された)。

「春風や広野にうてぬ雉の声」(「俳句」:広野に負けない)。

「あはれ、世にもあひ、年なども若くて、みめもよき人にこそあんめれ。しき(式:式神)にうてけるにか。この烏は式神にこそありけれ」(『宇治拾遺物語』:式神の威力に負けてしまったような状態になっている)。

「人中へ出してうてぬ御姿」(「浮世草子」:圧倒され存在が敗北することのない姿)。

「嶋主一円うてぬ顔」(「浄瑠璃」)。

「壬生(みぶ)村で名うてにうてた器量よし」(「浄瑠璃」:この「なうて(名打て)」は、人々が名に圧倒される。つまり、評判の、のような意→「なうての詐欺師」)。

※ 動詞「見え」に関しても、「Aに見え」は、Aという状態に見え(自発)、という表現はもちろんあり得ますが、Aという主体において(私が)見え、(私が)Aに見られ(受け身)、という表現もあり得ます。

 

「うて(棄て)」(動詞)の語源

「ふて(棄て)」の子音脱落(「ふて(棄て)」はその項)。「そに脱(ぬ)きうて(棄て)」(「古事記歌謡4」)。