「うちゆいふの(内ゆ言ふの)」。「ゆ」は経験経過を表現する助詞(「ゆ(助)」の項)。内から(内で)言ふという情況の、の意。何も言わずに言う。故意や意図なしに自然に現れてしまう。この枕詞は、それは何の人工的工作もない自然であることから、「ま」(「ま(真)」の項)にかかり、そうした状態で籠もっていること(それでも自然に何かが現れてしまうこと)を表現したりします。

「うつゆふの隠(こも)りてをれば」(万1809:この「をれば」は、いるから、という順接ではなく、いるのに、という逆接。隠(こも)っているのにある少女が男たちの評判になってしまう)。

「姸哉乎(あなにや:「姸(ケン)」は、美しい、のような意の字)。國(くに)を獲(え)つ。うつゆふのまさきくに(眞迮國)と雖(いへど)も、なほ、蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)のごとく」(『日本書紀』(下記※)) 。

※ 「あきづしま」の「あきづ」と蜻蛉(とんぼ)の意の「あきづ」は同音であることから、古くから両者は関連づけて言われます。ここで言う「あきづのとなめ」は、「あきづしま」(満たされ尽くす島、の意。「あきづしま」の項)の意味での「あきづ」が蜻蛉の意味での「あきづ」の「となめ」のごとくであり、「となめ」は「つをなめ(蜻蛉(つ)尾並め)」であり、「つを(蜻蛉尾)」(蜻蛉(とんぼ)の尾:「つ」は蜻蛉(とんぼ)を意味する古語→「とんばう(蜻蛉)」の項)のように、その節がつながり続くように、延々と連動する、ということでしょう。それが「あきづ(秋蜻蛉):赤とんぼ」のであることは、美しく赤く、ということでもあるでしょう。この「なめ」が「舐(な)め」と解され、「となめ」が蜻蛉(とんぼ)の交尾やその後の生態を表現しているものと解され「臀呫」という表記がなされたのでしょう(この表記は「臀」(尻(しり)を)「呫」(舐(な)める)の意。蜻蛉(とんぼ)の交尾やその後の状態は一匹が他の一匹の尾先を咥(くわ)えているように見えます(実際は、一匹が尾先で他の一匹の首の部分をおさえています))。前記の「姸哉乎」以下は『日本書紀』にある神武天皇の言葉とされるものであり、その最後の言葉ですが、ここで言っていることは、「迮」の字で書かれる形容詞「さし」は障害感があること、限定が加えられていることであり、『ああ……。国を得た。(欲を出せば際限のない人間の)限定された空間ではあるが。なほ。「あきづしま(満たされ尽くす島)」であることは延々と美しく連動し続ける』ということです。