「うつふたへに(空二経に)」。「うつ(空虚)」を二つ経過するほどに、「うつ(空)」の上にさらに「うつ(空)」に、の意。つまり、無いことを、空虚な経過を、強調した表現です。意味としては、空虚に、ということであり、事実として空虚に、の場合もあれば、意味として空虚に、の場合もある。否定の完全性を表現することは反語表現にもなる。思いを強調して表現するという点は「うたがた」に似ており、『類聚名義抄』では「未必」(下記※)が「うつたへに」とも「うたがたに」とも読まれています(下記※)。
「うつたへに人妻と言へば触れぬものかも」(万517:「かも」は永嘆:人妻だからといって触れることはまったくないものか?:事実として空虚に、そういうことはまったくなく)。
「うつたへに秋の山辺をたづね給ふにはあらざりけり」(『蜻蛉日記』まったく、ただ単に、何の意味もなく、秋の山辺をたづねたのではなかった:意味として空虚に)。
この否定の完全性の表現が動態の完全性の表現にも用いられるようになりました。「松が根を磯辺の浪のうつたへにあらはれぬべき袖の上かな」(『新勅撰和歌集』:松の根を磯辺の浪が全的に、完全に洗う状態になる:もつとも、この歌は「松」と「待つ」、「洗はれぬ(ぬ、は完了)」と「現はれぬ(ぬ、は否定)」がかかっているということか)。
「うつたへにかうておはすらむと思ひよらむやは」(『浜中納言物語』:彼のようにもあるだろうと空虚に(なんの意味もなく)思いそれに心惹かれたりするものだろうか(そこには何らかの意味があるのでは))。
※ 「未必」は、中国語では、必定の逆意であり、必ずそうとはかぎらない、という意味ですが、上記の「うつたへに触れぬものか」のような用い方がそのように解された、ということでしょうか。まったく、絶対に、触れないものか?→必ずしもそうとは限らない、ということです。