この「う」は目標感のある「お」が(「う」の項でも触れましたが、目標感がある、とは、対象化し遊離感があるということです)、その「お」がU音化し遊離した動態感が生じ動的遊離感を表現する「う」です(→「う」の項)。動的遊離感とは、そこに独律した動態感があり、それは発生感にもなります(自覚されない裏(うら)から自覚される表(おもて)へ発生します)。表面に現れます(この発生感は「うかぴ(浮かび)」という言葉で明瞭に表現されます→「考えが浮かぶ」)。「うき(浮き)」はそういう「う」を語幹とする動詞ということです。他動表現「うけ(浮け)」もあります(「海に船うけ」(『源氏物語』)、「涙をうけて宣(のたま)へば」(『源氏物語』:これは、受けて、ではありません。浮けて))。
「…沖辺(おきへ)を見れば 漁(いざり)する 海人(あま)の娘子(をとめ)は 小舟(をぶね)乗り つららに(つらなって)浮けり…」(万3627:これは、娘子(をとめ)だけではなく、漁火(いさりび)が浮かんでいます)。
「浮世(うきよ)」という言葉があります。平安時代頃は、仏教の無常観や浄土・穢土(ヱド:汚れた世)の思想の影響などもあるのでしょう、「憂世(うきよ)」と言われましたが、江戸時代頃になると、深刻にものごとを考えたりしない、陽気で楽しそうだが表面的で薄っぺらな「浮世(うきよ)」が言われるようになります。「散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき」(『伊勢物語』:これは、憂き世)。「月・雪・花・紅葉にうち向ひ、歌を歌ひ、酒飲み、浮きに浮いて慰み、手前の摺切(すりきり:金銭や財産を使い果たし失うこと)も苦にならず。沈み入らぬ心立(こころだて)の水に流るる瓢箪(ヘウタン)の如くなる。これを浮世と名づくるなり」(「仮名草子」:これは、浮き世)。この「浮世(うきよ)」は、貨幣経済・商品経済が発達し、いつでも実り(賃金や手間賃)が手に入り、自然・環境への畏(おそ)れが弱まっていることも影響しているのかもしれません。