「いで(出で)」を尊敬表現「まし(坐し)」で表現したもの。「まし(坐し)」はその項(これは「いまし(坐し)」の「い」の落ちたものであり、動態を慎みをもって表現します)。すなわち「いでまし」は「いで(出で)」を慎(つつし)みをもって表現したもの。「いで(出で)」には、出現・現れ、を表現する場合と、離れ・去りのような、遠心的な動態進行を表現する場合がありますが(→「いで(出で)」の項・12月(去年)20日)、「いでまし」の場合はすべて、出現・現れ、を表現し、離れ・去り、は表現されないように思われます。現れ、は、空間的域に現れることもあれば、ものごとに(あるいは、ものごと・出来事として)現れることもあり、存在しないものが現れるのではなく、居なくならないこと、つまり、居ること(居続けること)もあります。
「い」が落ちた「でまし」が名詞化し「お(御)」がつくと「おでまし」になります。
「皇后(きさき)、紀国(きのくに)に遊行(いでまし)て熊野岬(くまののみさき)に到りて」(『日本書紀』)。
「梅の花咲ける月夜にいでまさじとや」(万1452:これは、離れ去らないのですか?という意味ではありません。こちらに現れないのですか?という意味)。
「百夜(ももよ)いでませ我が来たるまで」(万4326:(父母は)私が防人の任を終えて帰るまで変わらずいてください、ということ)。
「さて後に霊にいでまして…」(『大鏡』:これは、ものごととして現れる)。