◎「いそし(勤し)」
「いそをし(勤惜し)」。「いそ」は「いそいそ」(12月12日)などにあるそれ。「いそをし(勤惜し)」は、「いそ」で惜(お)しい。だから「いそ」であって欲しくない、という意味ではありません。「いそ」であって、それが失われることが惜しい。Aの専心に関しBが「いそしい」と言った場合、BはAの専心を惜(を)しいと、失いたくないと、思っています。「いそ(勤)」は「いそぎ(急ぎ)」の語幹にもあるそれですが、「いそし」を「急惜し」と書くと意味がわからなくなります。「いそぎ(急ぎ)」その他の「いそ」は何かに専心していることを表現することが意味の基本なのです。ある主体が機会に専心し、その機会が失われることを惜(を)しんでいるのが「いそし」。専心的で感銘を与えるということです。「黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしき汝(わけ:お前、のような意)と誉(ほ)めむともあらず」(万780:「黒木(くろき)」は皮がついたままの木材)。その主体は喜びをもって専心しその機会が失われることに代償を欲するような情態になっています(いそしんでいる。「いそしむ」状態になっている)。そんな情態であることを表現するのが「いそをし(勤惜し)→いそし」。
その「いそし(勤し)」の動態になることを表現する「いそしみ(勤しみ)」という動詞もあります。これは「いそをしみ(勤惜しみ)」。専心し惜しんでいること。専心的に何かを失いたくないと打ち込んでいること。「大内陵(おふちのみささぎ:天武天皇陵)を造りし時に、勤(いそし)みて懈(おこた)らざりしを美(ほ)めたまへり」(『日本書紀』)。
また、この「いそ」が語幹になった「いそひ(勤ひ)」という動詞もあります。専心している動態になること。「(御民(みたみ)が檜(ひのき)の原木を都に献上しようと)いそはく見れば…」(万50:「いそひ(勤ひ)」のいわゆるク語法)。「花開きて春を闘(いそふ)に似たり」(『遊仙窟』(醍醐寺):花が一心に専心し励んでいるような表現。多くの主体が一斉に何かにいそへば競(きそ)うような状態にもなります)。
◎「いそばひ」(動詞)
「いそびあひ(勤び合ひ)」。「いそ(勤)」は「いそぎ(急ぎ)」の語幹にあるそれ。その項参照。「び」は「都び」「荒び」その他にあるそれ。「び」の項参照。専心し合う状態になること。何かに夢中になること。これは、じゃれあう、のような意味の動詞「そばへ(戯へ)」との関係が言われる語ですが、別語でしょう。「万3239」にある語。