直線的進行感を表現する「い」による動詞です。進行感の理性的確認が表現されています。それがなんであれ進行動態にあります。「い」と「ゆ」が交替し「ゆき」とも言います。この交替は相当に一般的で、慣用表現としても定着しています。「ゆくゆくは(行く行く)は」(将来は)、などは「いくいくは」とは言わないでしょう。「心ゆくまで」なども「心いくまで」とはまず言わないでしょう。「心ゆくまで」は、心が心として進行しそこに条件や障害がなくなるまで、の意。「ゆくへフメイ(行方不明)」も「いくへフメイ」とは言わないでしょう。これは古くからそうであり、「いき(行き)」と「ゆき(行き)」の二つの動詞があるといってもいいような状態になっています。俗語的慣用的に「ゆ」が一般化し特に進行が強調されるとき「い」になるということでしょうか。性的絶頂期にも「いく…」とは言っても「ゆく…」とは言いませんね(言っている人もいるのかもしれませんが)。

「あめつちの神を祈りてさつ矢(性能の良いすぐれた矢)貫(ぬ)き筑紫の島をさしていく(伊久)われは」(万4374)。「君がゆく(由久)海辺の宿(やど)に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ」(万3580)。

「いき(行き)」が、自分に何かが進み感じられ認められる状態にあることも表現することに関しては昨日の「いき(粋)」の項。「いかす」は「いき(行き)」の使役型他動表現なわけですが、自分がどこかへ行く場合は「いかしてるね」という昭和の俗語になります。

動詞に現れる「い」による進行も微妙に違いがあり、「いに(去に)」「いみ(斎み・忌み)」は主動的な(自発的に発する)進行があり、「いに(去に)」は遠心的(外への進行)・「いみ(斎み・忌み)」は求心的(内への進行)です。そして「いき(行き)」客観的な、客観世界での進行です(「い」のアクセントが違います)。