「あはぢいさはふ(あは路いさ這ふ)」。「はふ(這ふ)」は何かが感じられていること。「いさ」は、「さぁ…」のようなものであり、不知を表現します。良く分からない、知らない、といった思いの表現です(→『音語源』「いさ(不知)」の項)。「あはぢ(あは路)」という表現は『古事記』の「島生み」にあります。「あは」は感嘆発声であり、「あは路(ぢ)」は、感嘆の道、感嘆すべき、驚くべき、奇跡の道、というような意味です→『音語源』「おほやまととよあきづしま」の「島生み」の項。その「あは路」として世界があり、世界の経過を経験する人間はその「あは路」を歩んでいる。すなわち、世界は神の力で動き経過して行く。それは神の意思、神の意図の現れのはず。しかし、人はその意思すべてを知ることができないまま「あは路」を歩んでいる。現実の中で、なぜこうなるのか、これからどうなるのか、良く分からないまま歩んでいる。「あは路いさ這ふ」――あは路は、良く分からないという思いがする(そういうものだ)、とは、そういうことです。「あぢさはふ妹(いも)が目かれて」(万942:「かれ」は関係が疎遠になっていること、会わない状態になっていること)は、「あぢさはふ」が「妹」や「目」の枕詞になっているわけではなく、漂うように旅路にある自分、どうなってしまうか不安な状態にある自分、がそう表現されたということです。「あぢさはふ夜昼知らず」(万1804)も、それが「夜昼」の枕詞になっているわけではなく、弟が死んだこと、そういう境遇に見舞われた自分、自分を見舞ったそうした世界の経過、それらが「あぢさはふ」と表現されたということです。つまり、これは枕詞とも言われますが、枕詞というよりも、一種の慣用句。

 

※『音語源』のあるサイト(言語や歴史の原稿を扱うサイトです) http://kaitahito.world.coocan.jp/

購読自由。