「あたかも(恰も)」という言い方をします。「あてはかもろ(当て努果諸)」の音変化。「は」と「ろ」の子音は退化し「ては」が「た」に、「もろ」は「も」になりました。「あて(当て)」は推量、それゆえの期待・思惑・見込みを表現します(→「当てが外れる」)。「はか(努果)」は(この場合は思考の、というよりも、脳の)努力の成果(→『音語源』「はか(努果)」の項)。「もろ(諸)」は、二つ揃(そろ)って、や、完全な、を意味します(→『音語源』「もろ(諸)」の項)。すなわち全体の意味は、推量の努力は完全に、そうではないかという思いはまったく、ということです。その場合、たとえば「あたかもA」は「私のそうではないかという思いがまったくA」という意味ではなく「人のそうではないかという思いがまったくA→誰もがそう思うそのままA」ということです。「わが背子が捧げて持てるほほがしは(朴(ほほ))あたかも似るか青き蓋(きぬがさ)」。明治時代には「チャウド(丁度)」の意で用いられた例もあります。「お種は茶の間へうつった、恰(あたか)も三時である」(尾崎紅葉『多情多恨』)。