隅田(すだ)八幡宮所蔵の人物画像鏡銘の読みについてです。

 

原文はまず、最初の二〇字だけ取り上げます。

すなわち、

 

「癸未年八月日十大王年男弟王在意紫沙加宮時」

訓みやすく間をおいて記せば、

「癸未年八月 日十 大王年 男弟王 在意紫沙加宮時」

 

全体の訓みは、

癸未年(みづのとひつじのとし:西暦503年)八月(はづき) 日(ひ)は十(とを) 大王年(すめらみことのとし) 男弟(をおと)王(おほきみ) 意紫沙加宮(おしさかのみや)在(まします)時(とき)

 

「癸未年八月」―「みづのとひつじのとしはづき」。これは問題ないでしょう。癸未年(みづのとひつじのとし)の八月にということです。

「日十」―「ひはとを」。これは、日は十日(とをか)。十日間。すなわち、十日間いた、ということでもあり、連連と続く日のイメージを表現したものでもあります。

「大王年」―「すめらみことのとし」。これは、天皇(すめらみこと)になった年、ということです。「すめらみこと」が生まれた年、と言ってもいい。

「男弟王」―「をおとおほきみ」。この「をおと(男弟)」は「をほど」。子音が脱落しています。すなわち継体天皇です。この天皇は「をほど」とも「をほと」とも言われていたようです。この天皇の名は「男大迹・乎富等・袁本杼・雄大迹・男太跡」といった様々な書き方がなされています。少なくとも銘のあるこの鏡を作った者は「をおと」と言っていたということです。「王(おほきみ)」と書いてあるのはその前に「大王(すめらみこと)」と、すでに書いてあるからです。そして、この鏡は「王(おほきみ)」が「大王(すめらみこと)」になったことを記念したものでもあるからです。(参考・本ブログ2019年2月5日付け「「天皇」の語源」)

「在意紫沙加宮時」―「意紫沙加宮(おしさかのみや)在(まします)時(とき)」。(男弟王・継体天皇が)意紫沙加宮(おしさかのみや)にいたとき、という意味なのですが、では、なぜ「男弟王(継体天皇)」が「意紫沙加宮」にいたのかが問題になります。それは、「意紫沙加宮(おしさかのみや)」が允恭天皇の皇后・忍坂大中姫(おしさかのおほなかつひめ)の実家であり、この忍坂大中姫は応神天皇の孫だからです。応神天皇の多くの子の中に「稚野毛二派皇子・若野毛俣王(わかのけふたまたのみこ)」があり、この「ふたまたのみこ」に「おほほと(意富富等)」(または「おほほど(大富杼)」・「おほいらつこ(大郎子)」とも言う)(男)と「忍坂大中津比売(おしさかおほなかつひめ)」(女)の二人の子がいます。「をほど天皇」(継体天皇)はその「おほほと(意富富等)」の孫の子とされます。つまり、「男弟王(継体天皇)」と当時「意紫沙加宮」にいたであろう(そして他からも呼ばれたであろう)人々双方の三・四代前が兄と妹。「をほど天皇」(継体天皇)は、その前の武烈天皇で皇統が途切れそうになり、応神天皇の子孫が選ばれ天皇になることを勧められ迎えられたものです。その過程でこの人は皇位に就くことを相当に迷っている。彼は、最終的に事実を確認をするために応神天皇の孫の実家たる「意紫沙加宮(おしさかのみや)」へ行ったのでしょう。そしてそこで多くの応神天皇の子孫たちと会い、話も聞き、間違いない、という確信を得た。疑いもなく自分は「すめらみこと」だった。「すめらみこと」が生まれたわけです。隅田(すだ)八幡宮所蔵の人物画像鏡はそれを喜び、末永くと言祝(ことほ)ぎ、祈り、作られた記念の、そして祈念の、品です。鏡に描かれたレリーフには馬上の人が一人います。これが「おほきみ」でしょう。そして多数の男や女が踊っています。これは人々の古代的な祝福と喜びの表現です。

 

上記の原文に続く部分には「斯麻念長」(し(息)ま(間)ね(音)ながく(長く))。すなわち、息と息の間の音(ね)を長く、すなわち、息と息の間の音(ね)長く言祝(ことほぎ)を歌いつつ、と書かれている。

この鏡に関しては、鏡自体の考古学的年代観から允恭天皇の時代のものと見た方が妥当という見解もありますが、それは、古式ゆかしいものが作られたということです。

鏡銘文の続く部分には「奉遣開中費直穢人今州利二人等所白上同二百旱所此竟」とあります。

読みやすく間をおいて記せば「奉遣 開中費直穢人今州利 二人等所 白上同二百旱所 此竟」。文中の「同」は「銅」であり、「竟」は「鏡」です。冒頭から二字目の「遣」は「まだし(遣し)」。動詞「まだす(遣す)」は使いとして人を送ったり何かを差し上げることを意味します。この場合は鏡を、まるで使いのように、何かのもとへ送ることを意味しています。「開中費直(かふちあたひ)」と「穢人今州利(ゑひといますり)」は人名です。「開中」は「かふち」でしょう。「あたひ(費直)」は姓(かばね)名。価値ある人、の意。続く部分の訓みは「二人(ふたり)等(ひとしき)所(ところ)の白(しろ)き上銅(すぐれたるあかがね)二百(ふたもも)を旱(ほ)す所(ところ)の此(こ)の鏡(かがみ)を遣(まだ)し奉(たてまつ)る:二人が等しく白い上等な銅二〇〇をほした(負担した)此の鏡を(神前に)まだし奉る」。「所」は何かを指し示し強調する「その」のように用いられています。この字はそういう気持ちを表現するだけで、訓(よ)まないのかも知れません。「旱」は「日照り」を意味します、多額の費用を出すことで二人が干し上がり日照りのようになってしまった、という意味で、「ほす」と読みます。「白い銅」は銅と錫の合金。つまり、二人が、費用たる上等な銅を干し上がるような状態になりながら負担したのです。「奉」以下のこの部分は、二人が、私たちがこの鏡を作った、と書いているわけではありません。この部分は、鏡を作った人たちが、その多額な費用を負担した二人を神に伝え末永く顕彰するために書いたものです。今でも、神社の建て替えなどがある場合、その費用を負担した人たちの名が刻まれ顕彰されていますが、それが鏡で行われています。「開中費直」に名が無いことや「今州利」に「穢人」と書かれたりしているのは、本人達が顕彰され名を出すことを遠慮したり(神に向かって)謙遜し「穢人」と書き添えてくれ、と求めたりしたものでしょう。「二人等所」とわざわざ書き添えられているのは、そうした理由で書かれる「開中費直穢人今州利」がまるで一人の名のように見えるからです。「開中費直」と「今州利」はこの鏡を作った人ではなく、費用を出した人。費用を出す以上、作ることにも参加しているわけですが、では、この鏡を作り彼らの名を顕彰したのは誰なのかと言えば、それは名も無い村の人たちでしょう。