一人称の「あ」です。「あ」の音(オン:A音)の全的な完成感が言語主体を表現しました。「あ」の音(オン:A音)には(脳ニューロンの反応として)そうした作用があり、そうした効果が生じるということです。この一人称の「あ」では、「あり(有り・在り)」「あれ(生れ)」にもある、全的な完成感(これが存在感になる)が表現される「あ」が自主的(即自的)・主体的に表現されています。言語性保障としてA音の全体感と全的完成感が一人称として(言語主体の表現として)現れました。言語性保障とは、言語の言語性を喪失させないということです。言語の意味を維持するということです(言語は全く無意味化することもあります)。それは語音の生命体生理によって言語の真性が保障されるということです。「な(汝)こそはを(男)にいませば……あ(吾)はもよめ(女)にしあれば」(『古事記』歌謡6)。

 

日本語にこうした言語性保障機能が備わっているということはとても重要であり、大切なことです。ネットであれ何であれ、とにかく嘘やオルタナティブファクト(もう一つの事実)が蔓延しているのが現代社会です。実は、こうした上記のような言語性保障機能が備わっている言語、そうした特性のある言語、は世界中のあらゆる言語の中で、事実上、日本語しかありません。他のあらゆる言語にはすべてそれはないのです(言語音の脳における作用の仕方(脳ニューロンの反応の仕方)が異なるのです。日本語は全脳的、他の言語は片脳的(言語脳的)です)。すぐ近くの中国語や韓国語も語音の作用特性は日本語とはまったく異なります。そうした日本語の特性とその重要性は、少なくとも日本人は、一人残らず知るべきだと思います。何もしなくても日本語が永遠にあり続けると思うのは誤りです。情報化は恐ろしい規模と速さで進み、世界環境はもはやそんな時代ではありません。日本語も大切にすることを心がけなければいつの間にか消えてしまっていることもあり得ます。少なくとも日本人は、一人残らず、その言語の世界的重要性、大切さを知り、大切にすることを心がけ、子や孫へと末永く受け継いでいくべきだと思います。一度失われたら、それはもはや永遠に帰ってはこないのですから。