「ヒャウヒャク(平拍)」。「ヒャウ」「ヒャク」はどちらも慣習的音(漢音は「ヘイ(平)」「ハク(拍)」)→「平等(ビャウドウ)」「拍子(ヒャクシ→ヒャウシ)」。「拍(漢音、ハク)」は『廣韻』に「打也」とされるような字であり、基本意は手を打つことですが、その連打は一定の運動となり、ある一定間隔の連打の総体、その総体の繰り返しも運動となり、これは音楽の「リズム(rhythm)」にもなる(「rhythm(リズム)」の原意は「流(なが)れ」)。「リズム(rhythm)」は運動であり、音ではない。ここでは、音の流れにおける運動ではなく、社会的な、ものごとの流れにおける運動が問題になっている。 一方、「間(ま)」という語がある。ものとものとの間の、それのない空域、こととこととの間の、それのない空域、が「間(ま)」ですが、その「間(ま)」の維持によって拍(はく)による流れの総体は完成し、ことの流れの総体としてのことは完成し、それを起こす機会が悪くことの流れの総体としてのことの完成に失敗すれば、間(ま)が悪く、完全な準備はないがその完成に急げば、間(ま)に合わせ、をする。それにより、「間(ま)」が、ことの流れの総体としてのことを完成させる機会、「間(ま)」は、その折(をり)、という意味になる。この意味での「間(ま)」は「拍子(ひゃうし)」との関係における語です。それへの配慮、拍(はく)による流れの総体たることの流れの総体への配慮、が欠(か)けていれば、「間(ま)を欠(か)く」→「これはこれは有難うござりまするが、お間をおかかせ申た上、是(これ)をお貰ひ申ましては」(「歌舞伎」『小袖曽我薊色縫(十六夜清心)』)。そうした意味の間(ま)を維持する能力が欠落し抜けていれば「間(ま)抜(ぬ)け」。「ヒャウヒャク(平拍)」、すなわち、「拍(ハク)」が変化として平(たひら)に均(なら)されているとは、間(ま)の維持による拍(はく)による流れの総体は生まれず、その能力は抜けている状態となり、「間(ま)抜(ぬ)け」となる。すなわち「ヒャウヒャク(平拍)」は、間抜け、間抜けなこと、を意味する。「間(ま)抜(ぬ)け」とはものごとへの配慮能力が能力として抜け落ちていること。江戸時代の戯作における表現。

「所かはれば品川の粋事(すいじ)悪洒落(わるじやれ)持て来い客ひとつに綴(つづ)る滑稽(ひようひやく)に」(「洒落本」『南客先生文集』)。

「これがほんの後家の一心のろまの玉子と涙かたてにひやうひやく…」(『潤色栄花娘』:「後家の一心」は「虚仮(こけ)の一心」の洒落)。

「ひやうひやくなゆい言をするふぐの汁」(『川柳評万句合』)。

 

・「ひゃうまづき」という動詞もある。これは「ヒャウまづき(平間吐き)」。「ヒャウま(平間)」は前記「ヒャウヒャク(平拍)」の間(ま)。間抜けであること。「つき(吐き)」は「嘘(うそ)をつき」や「反吐(へど)をつき」などのそれ→「つき(突き・築き・吐き)」の項。「ヒャウまづき(平間吐き)」は、間抜けな、間の維持によるものごとの拍子たる流れの総体、それが人間関係なら相手の期待に沿う運動たる流れの総体、を台無しにする言動をすること。

「うたにあらず詩にもあらず、句にてもなしと口々につぶやき、ひやうまづきてほめそやし、腹をかかへてわらひけるに」(「咄本」『百物語』)。

「御心にさはつて拙者をひやうまづかしやるか」(「浮世草子」『傾城歌三味線』)。