謹厳居士。

 

絶対的禁酒主義者や厳格な菜食主義者の

唯一の合理的目的は、苦痛をできるだけ避け、

長生きすることである。

 

酒を飲むとか、肉を食べるとか、

その他なんでもいいが、そういうことを慎むならば、

 

5年よけいに生きることが期待できるかもしれないが、

 

一方、もし食べ過ぎたり、飲みすぎたりすれば、

翌朝は肉体の激しい痛みで報いを受けることになるのだ。

 

だから、必然的にすべての不摂生は、

クリスマスの年に一度の乱行でさえ、もちろん避けるべき

だということになるのだろうか?

 

実際には決してそうならないのである。

 

人は自分のしていることを十分に認識したうえで、

時々愉快にやることは、それによって肝臓が害を

被るとしても、なおそれに見合う価値があるのだと

決断してかまわない。

 

なぜなら、健康だけが唯一の重要なものではない。

 

友情や歓待の心や、それから、良い仲間といっしょに

食べたり飲んだりすることから得られる高尚な精神とか

視野の変化も、同じく価値あるものなのである。

 

完全な泥酔にしても、例えば年に二回というように、

それがめったにおこるものでないとするなら、

 

結局のところは害になるのか疑わしい。

 

後から来る悔恨をも含めてすべての経験は、

型にはまった精神活動の中に、外国で過ごす週末にも

匹敵するような一種の息抜きを作り出す。

 

おそらくこれは有益なことだろう。

 

謹厳居士はある意味でアル中よりも尚、

質が悪い。(善魔)

 

サヴォラローラ、ロベスピエール、ヒトラー。

 

無私にして、

酒もたばこも女もやらない禁欲の権化。

 

彼らはある意味で「人格の完成」をなしている。

 

しかし致命的に悪い。

 

こうした、謹厳居士タイプの人々は、

自分が切り捨てることができる欲求に

対して、

 

相手にもそれが容易である(はずだ)と考えて

しまうのだ。

 

これは二重の意味で間違っている。

 

一つは、たまに「お楽しみ」が欲しいのは、

人間の本質に根差した欲求であって、

 

それらを完全に切り捨てることができるのは、

ある種の変人だけである。

 

今一つは、これらを他人に強要することは

きわめて危険である。

 

「お楽しみを禁止すること」は、

どんな虐待にも増して、強い反感を惹起するからだ。

 

共感の欠如。

 

これは人間関係の癌である。

 

人間は数値だけで割り切れるものではない。

ときには「ゆるぎたるぎ」も又、必要なのだ。

 

 

これらの人々の末期が悲惨なのは偶然でなく必然である。

 

PS

アル中だったチャーチルと、

謹厳居士だったヒトラー。

 

結局、勝ったのは前者であった。

 

ショーペンハウエルは「論理的に正しい」が、

「実際的に間違っている」

 

なぜなら、人生の本質は、

 

剣を持つ者は剣によって滅び、

・・・それ以外のものは業病で滅ぶ。

 

つまるところ、

なにをしてようと行き着く先は同じ。

(この世に生を受け、滅せぬものなし)

 

だから、

好きなように生きたらええ。

「正解」なんざない。

 

大切なのは、

自分のしたいことがなにかを、わかってるってことだよ
(スナフキン)

 

何事も過ぎたるは及ばざるが如し。

 

慎重に生きること。

そして、たまには羽目を外すこと。

 

(・w・)=💩プーン。

 

 

・・・そんなにバランスよく制御できるのだろうか?

 

謹厳居士×、アル中×。