バビロニア人の結婚の習慣。

 

現代社会において、

人は皆、平等という「こと」になっている。

 

まして、人の顔貌について何か言うことは

一種のタブーとされ、

 

あるいは、

美醜で人を差別することは批難の対象となる。

 

けれど、実際は、

美醜は明らかに致命的なほど重要である。

(女優の某のCMギャラや

 有名スポーツ選手の妻を見よ)

 

現代社会は、

明らかな不平等が存在しているが、

一方では、

それが「ないこと」になっている。

 

「あるもの」を「ない」とする社会は

不健全な社会である。

 

・・・全く平等が聞いて呆れる。

 

古代バビロニアの結婚の習慣はあるいはその

「救い」となりえるかもしれない。

 

ヘロドトス『バビロニアの結婚の習慣』より引用。

 

年に一度、どの村でも結婚年齢の娘が一つの

場所に集められ、

男たちはその回りに輪になって立った。

 

それから、告知人が乙女の名前をひとりひとり

呼び上げて、売りに出す。

 

一番美しいのから始める。

 

彼女が少なからぬ金額で売られると、

美しさではその次のを売りに出す。

 

ー習慣では、告知人が美しいのを全部済ませて

しまうと、今度は一番醜いのを呼び上げて

男たちの前に出し、

 

誰がいちばん少額の結婚持参金で彼女を

もらうかをたずねる。

 

そして、いちばん少額をもらうと申し出た男が、

彼女を割り当てられる。

 

結婚持参金は美しい乙女たちに支払われた金で

賄われるから、美しい娘たちが醜い娘たちに

分配したことになるわけである。

 

引用ここまで。

 

ヘロドトスによると、

この習慣は非常に上手く行ったらしく、

このことは、大いに熱をいれて語られている。

 

現代では美は私有財産と同じように扱われ、

彼女らは美を自分のためにだけ行使しているが、

 

古代バビロニアでは、

美は共有財産として扱われ公共の目的に用いられていた。

 

現代において、バビロニアの結婚の習慣をそのまま

援用することは、別の問題があるわけで、

 

さすがに無理であろうが、

 

あるいは、

「美人税」のようなものを設けるというのは

どうだろう?

 

明らかに得する局面は多いわけだから、

明らかに損する局面の多い人に何らかの形で

還元する・・・。

 

「差別のない明るい社会」

気持ちのわるい社会である。

(個人の差異を認めない社会)

 

「差別のある明るい社会」を目指すほうが

よっぽど健全であるように思える。