make goodの思想。

 

経済問題を学問で解決できると思うのは、

浅薄である。

 

本質的に呪い(まじない)だから。

 

 

先日もご紹介した通り、

今、我が国は絶賛滅亡に向かって走っています。

・・・まあ、厳密に言うと、座り込みですけどね。

 

国力=供給力=GDP。

 

これは非常に簡単な図式であり、

医療も教育も軍事も全部、供給力しだい。

 

畢竟、これらの集積が幸福ってわけですから、

 

国家が存在している意義は、GDP成長にある。

 

こういっても過言じゃないと思います。

 

・・・でも、そんなに簡単にあがるんかいな・・・?

 

と思う人がいると思いますが、

 

GDPを上げることは、実は簡単です。
 

ざっくりいえば、金を使わせればいい。

 

ここまでいうと乱暴に聞こえますけど、

本当にそれだけです。

 

近代経済学の真髄。消費が供給を作り出す。

Y=C+I+G+(X-M)

 

で、所得に対する消費の割合が高い人。

 

即ち、消費性向の高い人を優遇スべし。

(平たく言うと貧乏人)

 

数理的な最適解はこのように明快なのですが・・・。

 

実態を見てみると、全くそういう風になってない。


貧者に課税したり(消費税)、

人頭税(社会保険税)をとったり、

意味不明の資産税(固定資産税)をとったりしています。

 

数理的に誤った政策ばかりをやっています。

 

これじゃ、GDPは上がりません。

 

・・・では、なぜこんな明々白々な簡単なことが

実施されないのか・・・?

 

それは、心理面の問題があるから。

 

金持ちは金の使い方を知っているから、

彼らに任せておいた方がいい、

 

貧乏人金を持たせても碌な使い方はしない。

 

金の使い方には「いい使い方」と「わるい使い方」が

あるという考え方・・・。

 

所謂、成功者崇拝。

 

英語で「成功する」は「make good」。

 

直訳すると、

良い(good)を作る(make)。

 

金があると人柄まで優れてきます。

という思想。

 

レ・ミゼラブル(ユゴー)に出てくる

ジャン・バル・ジャンは、

改心したから(金銭的に)成功した。

(あるいは、成功したから「いい人」になった)

 

・・・どちらにでも取れる構造になっている。

 

卵が先か、ニワトリが先か。

 

みたいな話。

 

現代では広汎な西洋化が進んだ結果、

成功者は優れている。

 

という思想はもはや普遍化しているわけですが、

 

これは所謂「プロテスタンティズム」の影響であり、

 

ざっくりと要約すると、

とにかく、敬虔な人は金持ちだ!

 

という思想のことです。

 

・・・これじゃわかりにくすぎる😂。

 

じゃあ、もう少しだけ細かくしよ・・・。

 

マックスウェーバーによると、

16世紀以降の西洋のキリスト教の宗教改革の結果、

カソリック教会に抗議する人たちの(プロテストする人たち)

が生まれ、

 

これらの人々のエートス(行動原理)

が近代資本主義の嚆矢となった。

(プロティスタンティズム)

 

 

「プロテスタンティズム」では、

職業とは単に口に糊するための手段ではなく、

 

神が貴方に与えた賜り物である。

所謂「神職」であるという考え方がある。

 

具体的には、

酒も飲まず、博打もせず、仕事に専心すること。

 

それが、

「敬虔に暮らすこと」であるとして、

 

一つの型として求められている。

 

そういう暮らしをすると、

結局、金が貯まる(はずだ)。

 

っていう帰結論。

 

まあ、聖書には、

金持ちが天国に行くのは、

駱駝が針の穴を通るよりも難しいとあり、

 

金と人柄がリンクしているというのは、

本来はおかしいのですが、

 

予定説の複雑な解釈の結果、

 

金銭があるってこと、豊かであること。

 

それ自体が、神の恩寵の証である。

 

みたいなところに着地してしまっているわけです。

 

※予定説とは、

人間は最初から救われる人、見捨てられる人は

予め定められている。(予定)

 

(この世の終わりに、最後の審判が行われ、

 そこで一度全ての人間は復活し、

 神に救われる人は、神の傍らで永遠の命を与えられ、

 一方、神に見捨てられた人は永遠の無に帰す)

 

人間がどう行動しようと結果を

覆すことも影響を与えることもできない。

 

けれども、過去の救われた人の例を見ると、

救われる人、見捨てられる人というのには、

何らかのパターンが存在する(はずだ)。

 

最後に神(キリスト)のそばに行くのだから、

 救われるような人はキリスト教徒である(はずだ)。

 

更に、勤勉で敬虔な人で、

神に対して冒涜的でない人である(はずだ)

 

という帰納法的思考。

 

真面目に暮らしている人なら、

金がたまってくるはずだろ?

 

お前、金がないの??

 

そら、いい加減に暮らしているからだろ?

 

神にたいするお勤めをサボっているから、

金がないのだ!!

 

という、論理展開。

 

すると、

貧者を救済することが、

経済合理的に一番、理にかなっているとしても、

そういう政策が実施されることはない。

 

減税は富裕層よりも、貧困層にしたほうがいいし、

なんだったら、減税よりも給付のほうがいい。

 

という、ごく当たり前の合理性について、

 

学問的な主張しても無駄である。

 

本質的に思想宗教の問題だから。

 

貧乏人を助けるようなあらゆる政策は悪である。

 

という、思想が根っこにはある。

 

ソーシャリズム(社会主義)が批判されるのも

同じ理屈である。

 

救われる人間と見捨てられる人間は、

アプリオリに(先立って)決まっている。

 

・・・つまり、弱者は見捨てられて当然の存在である。

救う必要はない、否、救ってはいけないのだ。

(神の意思に逆らう)

 

こう考えるから。

 

これは、

人間は改良できないという敗北主義。

 

このような考え方が蔓延しているため、

 

ごく簡単なはずの、

GDP成長をさせる政策がとられないのである。

 

(もちろん、現実的には民主政が金権制である

 この影響も大きい。要するに富裕層をより儲けさせる

 ためには「誰か」が犠牲にならないといけないから)

 

make goodの思想。

 

PS

日本語にも似たような表現で、

「貧(ひん)すれば鈍(どん)する」ってのがあるけど、

(make bad?)

 

でも微妙に違うのは、

富(ふ)すれば敏(びん)するとは言わない。

 

成功したいい人もいるけど、

そうでない人もいる・・・。

 

現代人は、お金持ちであることとお金持ちになることは、
数学的にも、本人的にも、社会的にも、道徳的にも、
別物なのを知っておくべきだ。

(ナシーム・ニコラス・タレブ)

 

結果から過程を演繹するのはやめよう。

 

リンゴを沢山持っている人が皆、

いいリンゴの木を持っているとは限らない。

 

(逆説)

 

猟犬は白い犬でも黒い犬でも構わない。

・・・獲物をとってこれさえすれば。