知性と学習の本質。

 

「涙とともにパンを食べた者でなければ、

 人生の本当の味はわからない」

(ゲーテ)

 

先日こんな記事を見つけた。

 

 

「災害時でも当たり前の教育をしっかり提供したい」

と意気込む担当者諸氏。

 

これはこれでいいのだが・・・。

 

果たして「当たり前の教育」ってなんなんだろう・・・。

 

確かに学校が避難所になっているなど、

「物理的に使えない」という実体はあるのだろう。

 

しかし、

学習って椅子に坐って板書を写すこと。

 

だけなんだろうか?

 

知性と学習の本質ってなんだろう???

 

A・ハクスリー著『目的と手段』から、

興味深い部分を引用する。

 

知性は、その対象の性質によれば、

2つの種類に属するものとして分類できる。

 

外部的世界の物事と事件を意識しそれを処理できる知性がある。

 

言いかえれば、

 

非我と関係のある知性と、我に関係する知性とがある。

 

しかし一から十まで知性的な人というのは不幸にも稀である。

 

多くの男女は実際的、常識的面のにおける外部的世界を

実に効果的に処理しうる。

 

そして同時に、抽象的理念、論理的関係あるいはそれらの

感情的そして道徳的問題を理解したり処理したりする力はない。

 

他の者はまた、

科学、芸術あるいは哲学において特殊化された能力を持つが、

 

しかし、自身の性質とか動機には野蛮なほど無知で、

衝動をコントロールする能力は全然ないのである。

 

俗な言い方でいうと、

「哲学者」とは抑制と冷静をもって行動する人、

知恵を深く愛するので実際に賢者の如く生きる人である。

 

・・・本来の意味では。

 

しかし、近代の職業的言葉でいうと、

哲学者とは認識論の問題を論じる人であるとされ、

 

彼が「賢者らしく生きること」は必要とは考えられていない。

 

偉大な哲学者の伝記は、

しばしば極端にがっかりさせる読み物となる。

 

それは、しばしば

これら「知を専門とする者」の中からでも、

悪意、羨望、そして虚栄が溢れ出てきた事実から

も明らかである。

 

・・・更に驚くべきことには、

ひどく子供じみた動物性の片鱗を感じさせることもある。

 

ニーチェの伝記作家たちは、

 

彼が超人のことを書いていた時、

ジャムとパイへの食い気をコントロールできなかったし、

 

山にかくれた際、籠いっぱいのご馳走が届くと、

いつも食いに食って、

 

その挙げ句癇癪を起こして眠りについた。

 

と書いているし、

 

カントもやはり砂糖漬けの果実が好物で、

それと同時に、ひどく病気と死を嫌い、

 

病気の友人を見舞ったり、あるいは友人が死ぬと

その友人の話をすることすら拒んだ。

 

更に晩年、彼は一種の「無過誤」を公言し、

彼の体系の限界は「哲学自体の限界」であると主張し、

多くの他の思索家たちが更に進もうとする企てには

尽く憤慨した。

 

同じような子供じみた自尊心はヘーゲルや

また極めて偉大な知力をもった多くの他の思索家たちにも

見られる。

 

もちろん、このような馬鹿さ加減は意志の産物である。

 

これらの人々は一種の「知的馬鹿」であるいえる。

 

「知的馬鹿」は自分の知性を自分の問題に応用することを

拒んできた人である。

 

他者を批判する如く、自己を批判することが出来ない。

 

「自分だけは利口である」

 

こう考えているために。

 

これとは反対に「賢明なる愚者」も存在する。

 

彼らは己を知り、

情念と衝動の扱い方を心得ているものであるが、

 

ただ論理的知性によってのみ解決しうる一層広い、

非人格的な問題を理解(認識)したり、処理することが

できない人々である。

 

「賢明なる愚者」は「知的馬鹿」よりも害は少ないし、

彼らの蒙を啓くことはあるいはたやすい。

 

翻って、己についての知識を持たず、

あるいは、己を制するを知らない知的馬鹿は、

現状に留まる限り、啓蒙達することはできない。

 

けれども彼らは、

その気があれば、「知的馬鹿」たることをやめて

「知的賢者」になりうる。

 

「知的賢者」は個人的な啓蒙を達成するのみならず、

全社会が信念と実践の大きな問題を処理することを

助けることすらもできるのである。

 

しかしながら、

現下の教育制度は、

最大限の多数の知的馬鹿を作るよう意図されている。

 

外的世界の現象と抽象概念と論理関係について「だけ」

聡明であるように吹きこむと同時に、

 

それに対する技術(科学、数学、言語など)を

叩き込む。

 

一方、「己について聡明であれ」と教え込むことは

殆どしない。

 

引用ここまで。

 

偏差値、学力テスト、技能試験。

 

これらは全て「バラバラの能力」を常に測定し、

それぞれのテクニックについての習熟度を測ること。

 

そればかりに注力している。

 

一方、「あなたが何者であるか?」という、

「統合の能力」については一切考慮すらしないのである。

 

被災した街がどのような人たちの力で

どのように復興していくのか?

 

それを見たり、参加したりすることは、

「学び」といえないのだろうか?

 

確かに学力テストの成績は多少落ちるかも知れない。

 

・・・しかし、そんなことは果たして「本質的な問題」

なのだろうか??

 

知らん人が知らんうちに直してくれた道路とか、

建物を見て、

 

ああ、オラが街だ!

 

って感じるかって話😁。

 

共同体意識とか、自己認識とか、

自分の力とかを感じる機会が、

 

今、目の前にあるのに、

知的馬鹿を量産することを優先し、

(試験の成績が悪くなってしまう😁)

 

・・・その愚かさに気が付かない。

 

確かに被災地は厳しい環境であり、

それを除いてやろう。という心情はわかるのだが、

 

臭いものにはフタ式の回答は

果たして「正しい道」を啓く答えと言えるんだろうか?

 

・・・僕らはもう二度と「焼け野原」から復活することは

できないのかもしれない。

 

 

こんなものが出されている時点で😁。

 

 

僕にはこれがアホのランキングにみえるけど😁。

 

アメリカ人思想家、

ナシーム・ニコラス・タレブはこんなことを言っている。

 

知能指数や入学試験、学校の成績は

オタクが造ったのだと思う。
 

あれは、

自分たちがいい成績を出せるように設計し、

 

オタク同士で、

お前頭いいなと言い合えるようにしたのだ。

※賢くて見識があり、

同時に知能指数のテストの点が低い人や、
前アメリカ大統領のジョージ・W・ブッシュみたいに、

あからさまに知能に欠陥があり、
同時に知能指数のテストの点が高い人(130点だそうだ)の場合、
 

彼らがテストをテストしているのであり、

テストが彼らをテストしているのではない。

 

知性と学習の本質。