制約と選択。

 

60年台の貧民といえば、

痩せ型体型で「ろくなもん喰ってない感」が

あり、

 

まあ、見りゃわかるよな。

 

っていう感じだった。

 

というのは、親にも余裕がなくて

子供に満足に菓子だのジュースだのなんてもん

を与える余裕はなく、

 

なんだったら、

昼飯もマトモに喰わせてやれなくて、

休みの日なんて給食ないから、

昼飯抜きなんてな家庭も割にあった。

 

だから、太りたくても、太れない。

 

制約の時代だったわけだ。

 

ときは流れて90年台以降この様相は一変する。

 

貧しいものほど痩せている。

という常識が反対に、

貧しいものほど太っているに変化したのである。

 

貧民ほど太っている。

 

これは、問題の本質が別の次元に移行した

ことを表している。

 

これまでの経済的な制約はなくなったが、

一方、選択の方が問題になっているのだ。

 

自販機で売られる清涼飲料水は150円。

一方、

スーパーで売られているブロッコリーも150円である。

(時期に依るが大体これくらいだろう)

 

つまり、そのどちらを買うか?

 

これが問題なっている。

 

条件は同じだから、買おうと思えば

どちらでも買える。

 

これまでだったら、

そもそも、この150円が

なくて買えなかったわけだが、

 

経済面での問題はほぼクリアになっている。

 

つまり、

多くの貧しい人はブロッコリーよりも

清涼飲料水の方を「選んで」買っているわけだ。

 

その結果が体型の変化に現れている。

 

この変化を好意的に受け取ることも、

もちろんできるだろう。

 

確かにこれまでの制約の社会では、

選択以前に制約のせいで実施できないことが

多すぎたからであるが、

 

問題なのは、この「選ぶ」という行為自体が、

「何者か」の都合によってコントロール

されているのではないか?

 

ということである。

 

子供がみるような時間帯の番組

スポンサー企業は、

 

ほぼ例外なく、

 

甘い飲み物や、甘い食べ物、

それから、

ファストフードの供給者ばかりである。

(コ○コーラ、ミ○タードーナツ

 マ○ドナルドなど)

 

なんの規制も遠慮もなく、

こうして垂れ流されたCMは、

 

知らず知らずの内に人々の脳を侵食する。

 

昨今、インターネット広告の世界では、

遡及率の向上が焦点化して、

 

それぞれのユーザーの指向性に沿ったCMが

表示される。

 

みたいなことまでやっている。

 

選んでいるようで、選ばされている。

 

子供だけの問題ではなく、

親もそうだ。

 

僕が子供時代を過ごした80年台、

ジュースは何かあった時

(誕生日やクリスマスなど)の祝ごとの

時にのみ、でてくるものだったわけだが、

 

現代の親は普通にコンビニで買った飲み物を

子供に何の思慮もなく飲ませている。

 

これはどう考えても異常である。

 

というのは、そうした食品が、

将来的に子供の嗜好を捻じ曲げ、

 

糖尿病などの深刻な病気の引き金になりえるからである。

 

・・・だから、

利口な親は子供にジュースなど

飲ませないのである。

(100%ジュースなども同じ)

 

まあ、業界は物を売りたい。

 

食品業界にとって、利幅が大きな商品を

如何にたくさん売るか?

 

それが焦点化するわけだから、

 

栄養素の中で糖質は最も安い。

 

実際、お安い食品は、ほとんど全てに

大量の糖質(高果糖液糖)が含まれている。

 

つまり、

そうした商品をたくさん買わせるためには

どんどん喰わせ、なんだったら

中毒させるのが最も手っ取り早い。

 

 

「生娘を薬漬けのように牛丼中毒に」

 

この言説は大批判を受けたが、

 

実際、

食品業界の多くが普通にやっている手法である。

 

なぜ、マクドナルドのハッピーセットは

驚異的な割引率を誇るのか?

(他商品が2割引きなら、ハッピーセットは5割引き)

 

そして、

大手のおもちゃメーカーとタイアップして

魅力的なおまけを付けるのか?

 

子供を大切に思っているから。

 

・・・ではない。

 

一般に初期の味覚の形成は

5歳頃までに完了すると言われており、

 

いうなれば、その年齢までに覚えた味が

嗜好性を構築するからである。

 

これで将来的な顧客を獲得でき、

ガッポリ儲けるためにそうしているのである。

 

そうして、

こんなものをばかり喰っているとどうなるか?

 

当然の帰結として糖尿病に成る。

 

さあ、こうなるとどうなるか?

 

今度は薬の出番である。

 

僕は自分の母が糖尿病で病院にかかった時、

 

非常に疑問に思ったことがある。

 

どの医者に掛かっても、

 

「血液検査の結果が高値なので、

 コレコレの薬を使いましょう」

 

これしか言わないのである。

 

彼らは母の生活習慣、運動頻度、睡眠時間

あるいは、食事内容だったり、

体重の推移だったりということを、

 

全く聞かないのである。

 

これははっきり言って理不尽で不合理である。

 

というのは、

 

糖尿病はかつて

成人病と呼ばれていた時代があったが、

 

今現在は「生活習慣病」と呼ばれているからである。

 

「生活習慣病」とは、その名の通り、

生活習慣に根ざした病気ということであるから、

 

生活習慣を正さない限り、絶対に良くはならない。

 

・・・なのに聞かないのである。

 

ファック!!クソ!!

 

要するに彼らは、病気を治すのが仕事じゃない。

 

単に薬を売るのが仕事なのである。

治ろうが、治ろまいが報酬は一緒だからである。

 

これら全てを俯瞰してみるとき、

 

一つの構図が浮かんでくる。

 

それは、智者と愚者のどちらが金になるか?

 

ということだ。

 

智者は、

利幅の小さな食材しか買わないし、

そもそも、あまり病気にならない。

(糖尿病などの慢性病にはまずならない)

 

一方愚者は、

利幅の大きな加工食品を頻繁に購入し、

かつ又、そのせいで健康を害する。

結果的に大量の薬を服用するハメに陥る。

(糖尿病は全ての病気を悪化させる)

 

最も効率的に大量の金を稼ぐには、

愚者を量産するほうが都合が良い。

 

食品業界と医薬品業界が手を結び、

あたかも、サッカーボールを蹴るように、

愚者を回している。

 
・・・まさにカモ。
 
人々を愚かにすることが利益に繋がる。
 
それは19世紀イギリスのアヘンの三角貿易
と極めて似た構図である。
 
PS
現代社会は非常に怖ろしい社会である。
 
ぼーっとしているとカモにされてしまう。
という意味で。
(子供を護れるのは親だけである)
 
しかし、
人類が飢餓を克服したのは漸く
20世紀の終わりであったことを考えると、
 
どっちのほうが良かったのか?
 
それはわからんけれど。
 
人は人のために産業を進歩させてきた。
 
人>産業。
 
しかし、この主従関係はどこかしらの段階で
入れ替わってしまった。
 
産業>人。
 
産業のために人は存在している。
(「省人化」という言葉が象徴するように
 人を省く。ということである。
 人はいなくてもいいということだ。)
 
プラトン以来、西欧思想と知識の理論は、
真か偽かを知ることにばかり焦点を当ててきた。

それはそれで立派なことだけれど、
もう、話を頑健か脆弱かに移していいころだ。

そして、
カモかカモでないかという
もっと深刻な問題を扱う社会認識論を検討していいころだ。
(ナシーム・ニコラス・タレブ)
 
制約の時代は良かった。
 
・・・やろうにもできなかったからである。
 
選択の時代は複雑である。
 
最高の生を求めることも、最低の生を求めることも
できるという意味で。