修正主義と原理主義。

 

これは世界を理解する上で、非常に大切な概念である。

 

修正主義と原理主義ってなにかって?

 

わかりやすい例として、キリスト教を引いてみる。

 

修正主義はカソリックのことである。

 

カトリックはいうなれば修正主義の総本山である。

ごく簡単に説明すると、カトリックは聖書に

書いてないようなことまで勝手に作ってやってるのだ。

 

こういう言い方をすると、カトリックの人はきっと反撥

するでしょうが、実際、悔悛だの、終油だのといわれる

所謂、7つの秘跡なるものは、原理的的なキリストの教えには

「当然」含まれていない。

 

では一体これらはどうやって捻りだされたか?というと

それは所謂、キリスト教神学という学問的な要請によって

作られたものである。

 

では、どうしてそんなもんができたのか?

 

そう、それこそが修正主義を理解する最も肝心なポイント

なのだ。

 

要するに、大衆にうけるための演出が必要だった。

あるいは、現実のニーズに答えるために必要だったと

言い換えても良い。

 

キリスト教を組織化し、体制を強固にするためには、

識字階級以外の大衆(無味蒙昧な人々)を巻き込まなければ

いけない。

 

まあ、当然、そんな奴等のほうが圧倒的に多いのだから。

 

数を稼ぐためには、馬鹿でもわかるような、わかりやすさ、

あるいは、卑俗な人間を満足させる程度の、

虚栄心を満たすものが必要だったのだ。

 

それは、キリスト教本来の偶像禁止(本来はユダヤ教のそれ)

などを無視することでしか、当然に実現できなかった。

 

マリア信仰だの、立派な聖堂だの、修道院だのというのは、

それら全てが実は修正主義的現実合わせのための、

いうなれば、「デタラメ」である。

 

が・・・。

 

この「デタラメ」故に、キリスト教は今日のような、

巨大教団となれたのである。

 

そうして時は流れた。

 

ある時この修正主義に疑問をもつ人たちが

表れる。

 

彼らは、識字階級であり、聖書が読めた。

それもラテン語で。

 

きちんと読むと、教会が主張してること、

秘跡だの、免罪符だのというものが聖書のどこにも

書かれておらず、全くの無根拠であり、

カトリック教会の捏造ではないか?との疑惑

(あたっているわけだが)

を抱く人たちが出てきた。

 

それが原理主義者である。

 

つまり、原理主義者とは、修正主義者の影であり、

修正主義者が現実を見ているのに対して、

原理主義者は原理原則を見ているのである。

 

つまり、どれだけ効率が悪かろうと、

原理主義者は原理にこだわる。

 

どっちが本来のキリストの教えに近いかは、

もちろん原理主義ということになるが、

これをそのまま現代に援用すると非常に面倒くさい

ことになる。

 

はたしてどっちが良いのか?

 

これは宗教の問題であるが、実はこの

修正主義と原理主義の問題は、あまねく社会の

あらゆるところでみられる問題である。

 

例えば、かつて存在した共産主義。

 

創始者のマルクスやレーニンは、世界同時革命論から

の政府権力の解体を理想としたが、

これは上手く行かなかった。

 

資本主義として後発のロシアでなら可能でも、

アメリカやイギリスというような高度な資本主義国では

革命が起こり得なかったからであり、

 

そこで、修正主義として、

一国共産主義をスターリンなどが提唱した。

 

とりあえず、共産主義国家はソビエトだけとして、

この橋頭堡を全力で死守する。

そのためには、他の勢力を抹殺する。

 

まあ、スターリンは共産主義自体に特に

思い入れはなかったが、「権力」には強い興味があった。

つまりは、政治家、統治者だったのだ。

 

だからこそ、原理原則に固執しがちな

他のライバルに勝ち得たのである。

 

そこを踏まえて考えると、N国党党首、立花孝志氏はどうだろう。

 

彼は結局、政治家に就任するもわずか数カ月で職を辞している。

 

政治とは結局修正主義であるということが理解できず、

自己の信念にただ固執するだけの原理主義者。

 

政治とは統治であって、市民運動ではない。

 

これが理解できていないがために、せっかく奪取した権力の欠片を

全く無思慮に放擲してしまったのである。

 

政治と市民運動の違いが理解できない馬鹿である。

 

本当に何かを成し遂げたいのなら、自己の大切な節を

七重の膝を八重に折ってでも、修正主義者と馬鹿にされてでも

そこにかじりつくべきだったように思うのである。

 

彼の後世の評価はすでに決まったように思う。

 

泡沫議員として。

(泡のように消えた存在)

 

PS

修正主義と原理主義は実は社会のあらゆる

場面に存在する。

 

理念と現実は常に乖離しているが、

そこには理由があるのである。

(大衆は馬鹿であるという)