先日、こんなブログを見た。

 

此の内容は、本人には見せないほうがいいほど痛烈な

面罵である。

 

しかし、私にこの人を批判する意図はない。

 

何のために書いているか?

 

それは、自己の中にある観念を再整備するためである。

 

その人は、こう言う。

 

私は無神論者だから、葬式には行かない。

 

葬式は、家族がその時だけ集まるような、

欺瞞的なものだから、嫌いだから行かないのだと。

 

その指摘はある意味正しい。

 

私も、神というものが実際に存在するか?

ということについては懐疑的である。

 

しかしながら、葬式には行く。

 

それはなぜか?

 

葬式とはそもそも、生きている人間が主催する「行事ごと」

であるからである。

 

要するに、主催する人間に対する敬意から

参加するのであって、それを拒否する理由に

個人的心情であるところの無神論なるものを持ち出すに

至っては馬鹿としか言いようがない。

 

こいつが葬式に参加しない理由は、単に

ケチだからである。

 

こういう奴は、大抵が頭がコチコチであり、

思考力がない。

 

にもかかわらず、「無神論」は効率的だ。とか思っている

馬鹿なのである。

 

「神は絶対にいる」というのが形而上学的な宗教で

あるのと同時に、

「神は絶対にいない」というのも又、形而上学的な宗教に

過ぎないということが馬鹿だからわからないのである。

 

私はこう思う。

神はいても、いなくてもいいと。

 

要するに、どっちでも良い。

 

だから、葬式にはでるのである。

 

なぜか?

 

日本では葬式というゆうと、大抵は仏教形式のものが

多かろう。

 

私はこれが欺瞞であるということは完全に知っている。

 

今日の宗派仏教は、基本的に私にとっては何の

役にも立たない。

 

それは、仏教の本筋とは全く違う物だからである。

 

仏教は本来、家族軽視の宗教である。

 

シャカ本人自体が、家を捨てているし、

子供につけた名前がまたすごい、原語の意味は、

ラーフラ

「覚りの障りになる悪魔」という意味である。

 

ハハハ。凄いだろ。

 

これがどうして今日、家族を懇ろに供養しましょうと

なっているのか?

 

理解不能の変異であるが、これ自体にも

意味はあるのだ。

 

そう、結局、本筋的仏教の覚り志向は、

私のような病気の者にしか、理解できないし、

用がないのである。

 

私の患っている病気とは、

「人間てなんなんだろう病」である。

 

オルテガ言うところの、自己沈潜とでも言うべきものだな。

 

こんな観念は、生きているうえで全く無駄だし、

はっきりいって邪魔にしかならない。

 

が・・・。抱いてしまったものはしょうが無いというわけで、

本筋の仏教、今日的な言い方だと阿含教的なものも

ある程度かじったわけである。

 

でもまあ、こんなものそこいらのおっさんや、

おばさんには何の役にも立たない。

 

覚りとは何か?

 

というようなものよりも、近親者を喪った悲しみを

どうするのか?というほうがニーズが圧倒的に高いのだ。

 

よって、今日の宗派仏教は、葬式仏教とあだ名されながらも

用と益とによって成立しているのである。

 

そこへいくと、

「無神論だから葬式には行かない」とか言ってる奴が

如何に浅はかなケチ野郎かが明確になるね。

 

要するに、馬鹿だから自分の形而上学的な要求である

ところの「神はいない」を護るために、

他の人の悲しみに寄り添うという、人間としての最低限の

マナーを放擲しようというのだから。

 

ケチで間抜けで馬鹿である。

 

PS

見ようによっては、坊さんとはある意味

尊い存在である。

 

それはなぜか?

 

今日の職業宗教者は、絶対に覚りには辿りつけない

人種で構成されている。

彼らは生涯かけても絶対にシャカの境地には

辿りつけないのである。

 

それは、彼らが仏教をノモスだと思っているからである。

経典からは実はナニも学べないのだ。

 

にもかかわらず彼らの存在は偉大である。

 

なんとも哀れな彼らであるが、彼ら宗教職業者は

役割という意味では大きな仕事をしている。

 

それは、嘘であっても、残された者に最低限の

慰撫を与えているのだから。

 

自己の覚りを犠牲にして。

 

私にはとてもできない。

あんな意味のないことは。

 

シャカは、魂や、神のような概念について

ほとんど言及しなかった。

 

ある意味でシャカは冷酷であり、他人など

どうでも良かったからだけど。

 

要するに、シャカにとって魂だの、神だのは

不要だったのである。

 

仏教の要諦は非常に奥が深い。

私ごとき、一知半解のものには理解ができないほどに。

 

不思議なことに、仏教の要諦は、西洋哲学に似ているが、

これは、逆であり、シャカ的側面が西洋哲学に

影響を与えたからである。

 

ショウペンハウエルとか。