出雲@AGO★GOのブログ

出雲@AGO★GOのブログ

出雲を愛する人のための情報源

もうすぐお正月なのでお雑煮の話を

我が家では、
元日は十六島のりの雑煮
二日は小豆雑煮が定番でした。

まず、小豆雑煮の話から
ご当地雑煮の紹介で鳥取の雑煮として
小豆雑煮を紹介されていますが、
島根県東部でも食べます。

農水省のウェブサイトでは、
鳥取の小豆雑煮の由来は不明とされています。
それもそのはず、由来は島根にあるのですから。

前回の神在祭でも紹介しましたが、
松江の佐太神社では、
神在祭の最終日に行われる神等去出祭にて
神前に供えていた餅を小豆と一緒に炊いて
再びお供えしています。

神在祭は約一週間執り行われるので、
神迎祭でお供えした御餅は固くなってしまいます。
それを再び柔らかくしてお供えするという、
出雲人の神様への想いが反映されています。

その慣習が小豆雑煮として残っているのです。
鳥取の小豆雑煮の由来を
「鳥取 小豆雑煮」で検索すると
AIは神在祭を紹介してきます。
農水省を超えるAI恐るべしです。

※ここからは2013年正月に紹介した内容です

さて、
本命の十六島のりの雑煮ですが、
出雲では、澄まし汁に
この十六島のりだけを入れていただきます。

有明海苔や江戸前海苔と違い、
半生状態で汁に浸すと、のりの繊維が
ふわっと広がります。
(焙っていただく場合もあります)
ほのかな香りと自然の甘味と塩味が
最高に美味しいです。

雑煮

先ほどから十六島と言っていますが、
十六島と書いてウップルイと読みます。
十六島鼻一帯でとれるカモジノリを
十六島のりというブランドで出荷しています。

十六島のり

ところで
なぜ十六島をウップルイと読むのか? 諸説あります。

その1
昔この場所を「於豆振」(オツフリ)といい、

その発音が変化した。
ちなみにオツフリとは、アイヌ語で凸凹した丘

その2
もともとウップルイという地名で、十六島は当て字。
ウップルイとは、アイヌ語で松の木が多い

ここまでは、アイヌ語語源説
次に大陸語語源説

その3
朝鮮大陸から漂流した船に16人の僧侶が乗っていて、
お経が沢山積まれていた。
よってここを十六島といい、

岬の先端の島を経島(きょうじま)という。
そして

朝鮮語のウルピロイ(断崖絶壁の意味)の当て字となった。

そして、日本語語源説

その4
スクナビコナノカミがここで薫り高い海苔を見つけ、
海苔に付いた砂を海水に浸して打ち振るったから
ウチフルウが訛ってウップルイ

いずれにしても、

十六島という文字は、後付けのようですね。

さて、
この十六島のりの美味しさは、

出雲國風土記(733年)にも記されています。

風土記には、その土地で採れる山の幸、海の幸も

記載されていますが、この一帯の楯縫郡の紹介にて

「この海で採れる海藻類は、となりの秋鹿郡で

記載したものと変わらないが、
紫菜(のり)だけは、楯縫郡のものが優っている」

秋鹿郡と楯縫郡は、すぐ隣りにもかかわらず、

昔の人々にも違いがわかったようです。

江戸時代にも逸話が残っています。

松江藩松平家第七代藩主治郷(不昧公)は茶人としても

有名ですが、参勤交代で江戸に向かう際に、

この十六島のりで作った裃を着て、
客人にそれをちぎって、焙って振る舞ったそうです。

酔狂なことでございます。

十六島のりは、12月から2月頃が旬です。
ネットで購入可能です。

地元のネットショップの今年の価格は

十六島のり10g 1340円
雑煮セット(仁多米餅、あご出汁) 3300円
小豆雑煮との食べ比べセット 4400円

澄まし汁は、海苔の塩けを考慮してうす味に
お餅は、同じ島根の仁多米餅がベストマッチです。
 

松江藩主松平家の菩提寺 月照寺(げっしょうじ)
その名は、
初代直政公の母君「月照院」に由来します。

松平家の代々のお殿様で、
現在でも人気があるのが、
第7代治郷(はるさと)公で、
またの名を不昧公(ふまいこう)といいます。

なぜ、人気があるのかというと、
財政がひっ迫した藩を立て直し、余裕ができた段階で、
松江の庶民に茶の湯をはじめとする文化を広めたからです。

さて、
月照寺の一番の人気スポットが、
「月照寺の大亀」と呼ばれる
「寿蔵碑(じゅぞうひ)」です。

 

「頭に触れると長生きするらしい」と言われているので、
ある意味パワースポットと言えます。

小泉八雲ことラフカディオ・ハーンも
著書「神々の国の首都」の第7章「杵築雑記」で、
夜な夜な出歩くといわれたこの大亀を紹介しています。
NHKの朝ドラ「ばけばけ」のロケ地にもなりました。

寿蔵碑とは、
生前に自分で建てる墓といわれています。

第6代宗衍(むねのぶ)公の墓前にあるのですが、
お父君の意向を汲んで、不昧公が建てたものです。

この碑となる巨大石は、島根半島の久多美から
大変な苦労をして運ばれたそうです。

ところで、
八雲もmonster tortoiseと記し
一般的に大亀と紹介されているのですが、
実は、これは亀ではありません!

これは、厳密には龍の子なのです。
九龍(クーロン)と言われるように、

龍は九つの子を持ちます。
その第一子を贔屓(びき、ひいき)といい
亀の姿に似ていて、重いものを好んで背負うのだそうです。

中国から伝わった寿蔵碑の意味を調べると、
そのように紹介されています。
また、月照寺のサイトにも、
よく読むと龍だと記されています。

もう一つ注目すべき点は、
この寿蔵碑に刻まれている碑文の撰者です。

荻野喜内(=天愚孔平・てんぐこうへい)は、
医学から儒学まで何でもこなした学者で、
松江藩の江戸屋敷で宗衍公の側近として仕えていました。

藩内では優秀な逸材として出世する一方で、
江戸市中では、作家として、変人として、
かなりの有名人だったようです。

荻野喜内の逸話で最も印象に残るのは、
千社札を流行らせた人物だということです。



 

疱瘡にかかった鶴太郎(不昧公の幼名)の回復を祈願し、
宗衍公の命により、伊勢神宮などに、
札を納める事を仰せつかった荻野は、
札に興味を持ち、江戸中の神社仏閣を巡り、
札を貼って歩いたそうです。
これが、千社札として、江戸庶民に広まりました。

すなわち
現在でも人気の千社札の流行のきっかけは、
幼少の不昧公の病気だったというわけです。

宗衍公の時代は、
江戸で「出羽様御滅亡(出羽守は松江藩主の別称)」と
言われるほど、松江藩の経済は破綻していました。

それは、宗衍公の政治が悪いのではなく、
イナゴ被害、津波、火災、大洪水と
災害が続いたのが原因でした。

宗衍公は「延享の改革」を施すのですが、即効性はなく、
不昧公に引き継いだ後の「御立派(おたては)の改革」で
ようやく松江藩は持ち直しました。

ですから、
この寿蔵碑には、
不昧公の【苦労された父君への思い】が
込められていると思います。

一見、怖く見える大亀の姿も、
不昧公に想いをはせながら、眺めていると、
やさしい気持ちになります。
 

出雲大社の2025年の神在祭のスケジュールは
11月29日(土)午後7時からの神迎神事 神迎祭に続き
翌朝の11月30日(日)午前9時から神在祭が執り行われ
そして、

12月6日(土)午後4時からの神等去出祭(からさでさい)で
お開きとなります。

 

 

一般に出雲ではこの1週間を神在月と呼びます。
なぜ、新暦では10月を神無月と呼ぶのかというと
旧暦の10月10日から全国の神様が出雲にお集まりなるからです。

だいたい旧暦10月は新暦11月頃ですが、今年はちょっと遅くて
神在祭(神在月)が12月までずれ込みます。
ちなみに2033年は旧暦10月10日が新暦11月1日ですので、
約1ヵ月変動があります。

神在祭の期間中は「神議り(かむはかり、かみはかり)」と

呼ばれる会議が摂社の上社(かみのみや、仮の宮)で

執り行われ、神々によってみんなのご縁が取り決められます。

 

 

この期間だけの特別なこととして、
拝殿の脇に大テントが張られ、「龍蛇神(りゅうじゃさま)」の

御神体を真近に拝見することができます。
あと、

神々がお泊りになる東西の十九社の神扉・御簾が開かれます。

また、神在祭期間中には、

縁結大祭という特別なお祭りが斎行されます。
以前は神在祭の中日に1回だけ実施されていましたが、
今年は、なんと3回斎行されます。

(参加には別途申込が必要です)


出雲大社の神在祭は12月6日(土)の神等去出祭までですが、
この後、神々は斐伊川のほとりにある万九千(まんくせん)神社に
移動して、直会(なおらい)が始まります。
 

余談ですが、出雲では、

お祭りやイベントの打ち上げのことを直会といいます。

万九千神社の神在祭は旧暦10月17日~10月26日
(2025年は12月6日~12月15日)まで執り行われます。
そして、旧暦10月26日(12月15日)の神等去出祭をもって
神々は神立橋から旅立たれます

 

 

出雲大社関連の神社の神在祭は この他にも行われます。

■朝山神社
旧暦10月1日~10月10日(2025年は11月20日~11月29日)

■日御碕神社
旧暦10月11日~10月17日(2025年は11月30日~12月6日)

■熊野大社
旧暦10月11日~10月26日(2025年は11月30日~12月15日)

そして、出雲大社、万九千神社を含めた五社で
公式なスタンプラリーが実施されるようです。

 

五社に旧暦神在月の10月中

(今年は11月20日より12月19日まで)
巡拝帳とスタンプが設置されるそうです。


ほとんどの神様は、これで各地にお帰りになるのですが、
中には、飲み足りない神様もいらっしゃるようです。

出雲国風土記の縦縫(たてぬい)郡、佐香(さか)郷のくだりにて

 佐香の河原に
 百八十神(ももやそかみ)等集い坐して
 御厨(みくりや)を立て給いて
 酒を醸さしめ給いき
 即ち百八十日(ももやそか)うたげして
 解散(あら)けましき
 故、佐香という

つまり、大勢の神様が集まって(出雲に残って)
酒を醸して宴会をして約半年後に解散したと、
酔狂なことでございます。
 

 

他にも、神在祭が執り行われる神社があります。
代表的なものは、松江市の出雲二ノ宮・佐太神社の神在祭です。

こちらは毎年、新暦11月20日から26日まで斎行され、
11月20日に神迎神事、11月23日に新嘗祭、

11月26日に神等去出祭が執り行われます。
特に11月23日の新嘗祭は祝日(勤労感謝の日)ですので
大勢の松江市民で賑わいます。
 

 

佐太神社の神在祭では、神在(じんざい)餅が振舞われます。
いわゆる“ぜんざい”はこの神在餅が語源で
出雲は“ぜんざい発祥の地”とも言われ、
江戸初期の文献「祇園物語」などにも記されているそうです。

では、なぜ“ぜんざい”が小豆雑煮かというと
佐太神社の神等去出祭にて
神前に供えていた餅を小豆と一緒に炊いて
再びお供えしていたからです。

こちらは松江藩の地誌「雲陽誌」の佐太神社の項にも
記されています。

また、出雲地方の東部では
お正月の雑煮を小豆雑煮でいただくお家もあります。


最後に、
今年の神在祭の時期に出雲を訪れる方へ

須佐神社にて令和の御遷宮が進行中で
先日11月16日に本殿遷座祭が執り行われました。

黄金色に輝く葺き替えされた屋根は
(自然にエイジングされていくため)
御遷宮直後の今しかお目にかかれません。

 

是非、併せてお参りください。

 

 

※13年前のブログを再チェックしてお届けします。

 

1日でスサノオノミコトを祀る主要パワースポットを巡る

黄金ルートを出雲国風土記の逸話を交えて紹介します。

はじめに
・出雲に何度か来たことのある人向けです。
・ポイントだけ示しますので、

 基本的にカーナビをご使用下さい。
・狭い道路も走りますので、あまり大きい車には不向きです。
・山道や急な階段もありますので、運動靴を着用して下さい。
・一日に廻りきることだけを目的としているので、

 ゆっくりお参りしたい人には不向きです。
  (最後に中級編ちょっとゆっくりルートも紹介します)

まず、行程は
出雲縁結び空港~韓竈神社~出雲大社
~日御碕神社(昼食)~須佐神社~佐世神社~須我神社
~熊野大社~神魂神社~八重垣神社~松江市内 です。

では、スタート!
9:00 出雲縁結び空港発

空港から出て2番目の信号を右折。
とにかく国道431号を目指します。
国道431号を西へ。 

平田市街地の本田橋交差点を北上。
海に突き当たったら、左折。
河下交差点を左折、旧鰐渕小学校を過ぎたら右折。
ここからは、
地元の人が設置した小さい看板を頼りに行くしかないです。

石切り場をすぎて寂しくなっても進みましょう。
地元の人が整備した800m手前の駐車場に駐車。
9:40着
ここからは徒歩で、杉並木を抜け急な山道を登り、

細い岩穴を潜ったらたどり着きます。
※このルートでここが一番ハードです。(いきなりですみません)

 

1社目 韓竈神社 
御祭神はスサノオノミコトです。



 

出雲国風土記(733年)の出雲郡の章に記載されている古社です。
偶然かもしれませんが、
出雲大社から見て鬼門(北東)の位置に鎮座しています。

日本書紀
八岐大蛇の件の一書(第四)には
スサノオは新羅経由で出雲にやって来たとあります。

また、
竈は金属加工技術の象徴でもあります。
ちなみに竈つながりで、
九州の太宰府天満宮の裏にある竈門神社には
本殿を守るように須佐社が控えています。


10:40発
海まで戻ったら、突き当たりの河下交差点を左折。
猪目という集落に着いたら、看板に従って左折。
道は細いです。途中、鹿の出現に気をつけて。
山を越えると、出雲大社の境内の脇に出ます。
11:10着

2社目 出雲大社 
御祭神はオオクニヌシノオオカミです。


 

 

ウラ側にスサノオノミコトを祀る素鵞社があります。



 

さらにウラ側に廻ると

禁足地・八雲山の磐座がむき出しになっています。
ここが出雲大社最大のパワースポットです。
昔、地元出身の竹内まりやさんが、

山下達郎さんのラジオ番組で紹介されていました。
また、昨年のNHKの竹内まりやさんの特集番組でも、

ここで宮司さんとロケをされていました。

11:40発
西駐車場の交差点を右折。
突き当たりの稲佐の浜を右折。
※昨年の豪雨で通行止の時期もありましたが、
 現在は、片側相互通行で大型車も通れます。
数キロ走って、最初の信号を右折。
日御碕神社に到着。
12:00着

3社目 日御碕神社 
日沈宮の御祭神はアマテラスオオミカミ、
神の宮の御祭神はカムスサノノミコトです。

 


 

寛永21年(1644年)、徳川3代将軍家光の命で着工し、
7年の歳月をかけて造営された権現造の美しい社殿です。

不思議なことに、
アマテラスを祀った日沈宮が男千木
スサノオを祀った神の宮が女千木です。

 



 

ここで昼食タイム。
海沿いの遊歩道を歩いて、

経島(ふみしま)を横目に花房商店へ。
おすすめは、ウニ入り日本海丼2000円。
ウニ好きの人は、ウニ丼3300円をどうぞ。
ただし、海が荒れてウニが獲れない時があります。
※昔は、ウニの旬は8月下旬から9月上旬だと聞きましたが、
 温暖化で今はどうかわかりません。

13:15発
お腹を満たしたら、来た道を引き返します。
稲佐の浜を横目に直進。山陰道出雲ICを目指します。
万代橋東交差点を右折。IC手前の国道9号線大島交差点を右折。
左に神西湖が見えたら、差海交差点を佐田方面へ左折。
数キロ走って、突き当たりを掛合方面へ左折。
この辺りからようやく須佐神社の案内看板が見えてきます。
案内に従って左折し、橋を渡って須佐神社の駐車場へ。
14:00着

4社目 須佐神社 
御祭神はスサノオノミコトです。


須佐神社3
 

出雲国風土記の飯石郡の章にて、
 ここは小さいけれど、良い国だから
 我が名は、木や石には付けず(土地に付けよう)と
 魂を鎮めて、大須佐田・小須佐田と定められた
と記されています。

現在、令和の御遷宮で本殿の改修中です。
11月16日までは、天照社が御假殿となっています。
なお、本殿のウラにある大杉には行けます。

14:15発 
駐車場から来た道をそのまま引き返して
須佐川を渡ったら左折
ドラゴンロードを抜けて飯石ふれあい農道を左折
国道54号線に出たら左折。
斐伊川を渡った先の里方の交差点を右折。

この里方は、雲南市木次(きすき)町にあるのですが、
出雲国風土記の大原郡の章にて
 天下造らしし大神(オオクニヌシ)が
「八十神は青垣山の裏に置かじ」と言って
 追い払う時に迨次(きす)きましき。
 かれ来次(きすき)という。
※“きすく”とは追いつくという意味とされます。

つまり、
稲羽(いなば)のヤカミヒメを娶ったことで
八十神たちの恨みを買ったオオクニヌシが
命を狙われて、根の国のスサノオに助けを求め
生太刀と生弓矢を使って八十神を追い払う術を教わり
ここ木次辺りでそれを遂行したわけです。

さて、案内に戻って
途中、佐世郵便局前を右折
踏切を渡って少し進むと左側に佐世神社の看板があります。
14:55着

一応、

軽自動車か小型車なら上に駐車場があるとなっていますが、
車がすれ違う余裕が全くないので、下の公民館脇に車を止めて
徒歩で登ります。

5社目 佐世神社 
御祭神はスサノオノミコトです。



 

出雲国風土記の大原郡の章にて
 スサノオノミコトが佐世の木葉を頭にかざして踊った時に
 刺した佐世の木葉が地に堕ちた。かれ佐世という

佐世は八岐大蛇退治が行われた場所(八頭?)と
クシナダヒメと住まわれた須賀の中間地点にあります。

移動途中にここでスサノオノミコトがクシナダヒメに
舞いを披露されたのではないかと、想像されます。



 

15:25発
来た道を引き返し、佐世郵便局前を右折、松江方面へ
道なりに進むと須我神社に到着。
15:40着

5社目 須我神社
御祭神はスサノオノミコトです。



 

古事記にて
スサノオノミコトが八岐大蛇退治の後に、
クシイナダヒメとの新居を建てるにあたり
「気分が清々しい」と言って住まわれた場所です。
※地名は須賀、神社名は須我です。

また、
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
八重垣つくる その八重垣を  と歌った場所です。

紀貫之が古今和歌集の仮名序にて
「人の世となりて、素盞嗚尊よりぞ、

 三十文字あまり一文字は詠みける」
と称え、須我神社は和歌発祥の地ともされます。

15:55発
※この地区から山越えで熊野へ抜ける道は
 現在通行止になっています。
来た道をさらに松江方面へ。
雲南市と松江市の峠を越えた最初の信号を右折。
突き当りを右折して、しばらく進むと熊野大社があります。
16:10着

6社目 熊野大社
御祭神は
イザナギノヒマナコ・カブロギクマノオオカミ

・クシミケヌノミコト
イザナギの子で、神聖なる熊野の神様である櫛御気野命
すなわちスサノオノミコトです。



 

出雲国風土記の意宇郡の章に登場します。
大社(おおやしろ)と記されるのは
ここ熊野大社と杵築大社(現・出雲大社)のみです。

16:25発
来た道をそのまま直進。松江方面へ。
右側にローソンがある交差点を左折。
八雲立つ風土記の丘の看板が見えたら左折。
突き当たりが神魂神社です。
16:35着

7社目 神魂神社
御祭神は、イザナミノミコトとイザナギノミコトですが、
8世紀過ぎまで、出雲国造の住まいがあり、
熊野大社の逢拝所であった場所です。


神魂神社
 

本殿は国宝で、出雲大社のモデルになったとも言われています。
出雲大社の本殿内の八雲の図には、雲が7つしかないのに対し、
こちらの本殿には、9つの雲が描かれています。



 

16:50発
神魂神社の参道を北へ進み、突き当りを左折。
直進が進入禁止の所を右折、最初の交差点を左折。
次の信号を左折。すぐに八重垣神社です。
16:55着

8社目 八重垣神社
御祭神はイナダヒメノミコト、スサノオノミコトです。

 

※八重垣神社の社務所は17時で閉まります
 本殿の御簾も閉じられますが、参拝はそれ以後も可能です。

出雲国風土記の意宇郡の章に佐久佐社として登場する古社で、
御祭神の一柱である青幡佐久佐日古命(アオハタサクサヒコ)は
スサノオの御子神と記されています。

 

 

帰りは
八重垣神社の前の道を真っ直ぐ行くと松江駅に戻ります。
最初の信号を左折すると玉造温泉方面へと向かいます。

上級編は超ハードなので中級編を少しだけ

コースは
出雲縁結び空港9:00発~9:40着 出雲大社 10:30発

~10:50着 日御碕神社 11:20発
~11:40着 出雲大社神門通り(昼食) 12:40発

~13:20着 須佐神社 13:50発
~14:40着 須我神社 15:10発

~15:30着 熊野大社 16:00発
~16;10着 神魂神社 16:40発

~16:50着 八重垣神社 17:30発

~18:00頃 松江市内or玉造温泉宿

これだけ巡ると、体力は消耗しますが、気力は充実します。
少し涼しくなった頃にお試しください。

 

※12年前のブログを一部修正してお届けします。

 

妄想☆考古学の時間です。
私の勝手な見解を述べさせていただいています。
ご注意ください。

 
佐久佐社は、

出雲國風土記意宇郡の章に登場するお社です。
出雲國風土記には、約400のお社が掲載されていますが、
この佐久佐社は、現在の八重垣神社と六所神社、
どちらの神社に相当するか?説が別れています。

 

出雲國風土記解説のバイブル、加藤義成さんの
「出雲國風土記」には佐久佐社は六所神社と記されています。

 

一方、今年の春、

島根県古代文化センターから発刊された「出雲国風土記」には

①八重垣神社 ②六所神社となっています。

  
「新・古代出雲史」の著者、関和彦氏の話によると、
当初の出雲國風土記の写本には、落丁があり
全てのお社の名前が記されていたわけではないらしいのです。

 

1634年に日御碕神社に寄進された写本には、
一部のお社しか記載されていないのに対し、

(脱落本系統)
それ以後の写本には、

全てのお社が記載されているとのことです。

(補訂本系統) 

 

それは、
松江藩の岸崎佐久次(時照)が、

1680年代に出雲風土記抄を作成するにあたり
延喜式神名帳に基づいて、

お社を書き加えたからだといいます。

 

ただし、

延喜式神名帳が927年完成のため、
大方間違っていないというのが、関氏の見解です。

 

さらに、関氏は
元の出雲國風土記に記されているお社は、社格順に記載され
後に出雲國風土記に記されているお社は、

国庁からの参拝順だとしています。

 
では、

この考えに従って、佐久佐社を考察してみましょう。


出雲國風土記での記載順は、
速玉社→石坂社→佐久佐社→多加比社→山代社→調屋社
これは、社格順とは思えないので、参拝順と仮定します。

 

速玉社は、熊野大社上の社
石坂社は、西岩坂の磐坂神社
多加比社は、東津田の鷹日神社
山代社は、古志原の山代神社
調屋社は、東出雲町下意東の筑陽神社

これらを地図上に落してみると


熊野から西岩坂の次は、

六所神社も八重垣神社もどちらのルートも考えられます。
 

しかし、次が東津田となると
八重垣神社から鷹日神社に向かうルート上に山代神社があり、

順序に矛盾が生じます。

 

一方
六所→鷹日→山代→筑陽の行程は、

ルートがクロスしてちょっと違う気がします。

 

そこで、私は1つの仮説を立てました。
山代社の位置は、
現在の山代神社の位置よりももっと東にあったのではないかと。

 

その根拠は、
まず、字名の山代が、古志原よりも東にあること。
また、山代にある茶臼山は神名樋野で、

南側に真名井社があります。
その対の位置辺りにお社があったのでは?と思うからです。

 

すると
熊野→西岩坂→佐草(八重垣神社)→東津田→山代→下意東の
一筆書きのルートが完成します。 


出雲@AGO★GOのブログ-山代神社

そこで先日、山代神社を参拝しました。
すると本殿に掛けられた由緒書に、

元来、山代神社は茶臼山の中腹に鎮座し、
延宝8年(1680年)に現社地に奉還したとありました。
ビンゴ!

 

よって
佐久佐社は現在の八重垣神社であると推測するわけです。
(すみません。あくまで妄想です)

 

では何故、佐久佐社は八重垣神社になったのでしょうか?
江戸時代の地誌「雲陽誌」(1717年)には、

すでに八重垣神社の名が見えるので
それ以前に名前が変わったのは間違いないのですが、
御由緒には、そのことは触れられていません。

 
佐久佐社はその名前からも、

主祭神はクシナダとスサノオの子
アオハタサクサヒコノミコトであったはずです。

 

何らかの理由で、
主祭神をクシイナダヒメとスサノオノミコトとする時点で
そうしたのではないかと想像します。

 

ところで、
佐久佐社は六所神社か八重垣神社かを考察するにあたり
最初の前提が、出雲国庁からの参拝順とするならば、
六所神社ではないことが、その時点で明らかでした。

 

なぜならば、
六所神社は、出雲国庁に隣接しているのです。
参拝順ならば、当然、最初か最後に記されるはずです。

 

では、六所神社は何であったのか?
これまで、意宇六社の中で、
(熊野大社、神魂神社、六所神社、

揖夜神社、真名井神社、八重垣神社)
神魂神社だけが、

出雲國風土記に見られないと言われてきました。

その理由は、

出雲国造の邸内にある熊野大社の逢拝所だったからです。

 

六所神社も

出雲国庁内の拝殿であったと想像します。

イザナギノミコトをはじめイザナミノミコト、
アマテラスオオミカミ、ツキヨミノミコト、
スサノオノミコト、オオナムチノミコトといった
六柱の偉大な神様が祀られ、国府総社として、
出雲の神社を取りまとめていた所です。

 

ですから
神魂神社と同様に
出雲國風土記に記す必要などなかったのです。

(すみません。あくまで妄想です)

 

そして、
ろくしょとは録所。すなわち記録を残す場所であり、
出雲國風土記編纂の舞台であったはずです。

 

713年5月に元明天皇により風土記編纂の詔がおりました。
1300年前の今頃、風土記をどうやって作成するか?
出雲国庁内は、大忙しだったに違いありません。

 

出雲國風土記編纂1300年を迎える今、

六所神社はもっと注目されていいお社だと思います。