17世紀前半の江戸では飲料水の確保が急務だった。人口が急増し、市域も拡大したため、従来の神田上水と赤坂溜池だけではとてもまかないきれない状態となっていた。
そこで幕府は多摩川に羽村取水堰(現・東京都羽村市)を設け、四谷大木戸(現・東京都新宿区)を経て江戸城まで通じる玉川上水を開削させた。
この工事を請け負ったのは、江戸の町人とも、多摩の農民とも言われる庄右衛門・清右衛門兄弟で、竣工後、彼らには士分と玉川の姓が与えられた。
以後、玉川上水は江戸の飲料水としてばかりでなく、武蔵野一帯の灌漑用水としても活用され、上流部は現在も現役の導水路として使用されている。
1654年
前年から進められていた玉川上水の開削工事が完了。江戸の飲料水不足が解消する