第2頚椎歯突起骨折闘病記~勇気を持って、安全に競技を終える人こそ真の勝者 | 「最後まで諦めない」~医師、時々作家、そしてランナー

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医師であり、時々作家、そしてランナーである筆者が日々の出来事について徒然なるままに綴っております。「最後まで歩かない」事をレースでも、人生でも目指しております。

長い間、ブログを更新する事が出来ませんでした。又、更新がない事を心配してコメントやわざわざお手紙まで寄せて下さった方々には深く感謝しています。



大怪我をしました。TwitterやFBには日々情報を上げていましたが、ブログを書く気力が出るまでに時間が掛かりました。約3か月ぶりにブログを更新させて頂きます。



私にとってトライアスロンという競技は出場すれば完走するのが当たり前のスポーツでした。又、どんなにハードな大会であっても、大会翌日には仕事をするのも又当然の事でした。



しかし、不覚にも8月23日に石川県珠洲市で開催された“珠洲トライアスロン”のレース中、バイクを運転中に運転を誤り、対向車と正面衝突しています。



救急車で搬送された珠洲市総合病院で第2頚椎歯突起骨折、左腓骨骨折と診断されました。即座に絶対

安静を宣告され、同院に緊急入院する羽目になっています。



歯突起とは第2頚椎(軸椎)の上部にあり、第1頚椎の輪の中に入るような形でつながっています。交通事故などの強い力が外部からかかり、この歯突起の部分が骨折するのが歯突起骨折です。



歯突起骨折



自分で動く事は出来ません。又、珠洲市は石川県の奥能登という地域にあります。今年放送された朝ドラ「まれ」の舞台となった輪島市の近くです。



決して近いとは言えない山口県に戻るためにどのような手段があるかをMSWの方と話し合っています。



受け入れは高度先進救命センターの准教授の尽力により、山口大学医学部付属病院に決定しています。



しかし、どのような手段を用いて移動するかは決まっていません。以下、23日を受傷当日と数え、()内の数字は事故からの経過日数を示します。



8月24日(day2) 山口県にある民間救急の会社が私を珠洲から宇部市まで搬送してくれる事が決まりました。値段はビックリするほど高額でしたが、非常事態ですので支払う他ありませんでした。



8月25日(day3) 台風の影響で高速道路は通行止めとなる区間が続出する中、15時間掛かって民間救急の救急車で山口大学医学部付属病院に転院しています。



この日は山大AMECに入院し、軽いICU症候群を発症しています。



8月26日(day3) 翌日に頚椎骨折を起こした時、固定するために用いられる装具であるハローベストの装着を予定していたため、頭を丸坊主にしています。これを業界用語でハローカットと呼ぶそうです。



8月27日(day4) 車の洗車機みたいな器械の中に入り、全身を隈なく洗っています。ハローベストを装着すると数か月入浴出来ないからです。



しかし、ハローベストを装着し、離床を試みましたが、頚椎歯突起骨折が重症であったため、予定は大きく狂ってしまいました。仕方なく、頚椎の牽引を開始しています。



この日の夜、ICU症候群が最悪の状態になり、多くの幻覚に苦しみました。



8月31日(day9) 4日間の牽引を行った後に、再度ハローベストを装着しての離床を試みました。しかし、頭の重みを頚椎が支える事が出来ず、離床は長期間に亘って不可能となりました。



9月1日(day10) 左腓骨骨折に対して全身麻酔下に観血的骨接合術を施行して頂きました。頸部を後屈する事が出来ないので、意識下に気管支鏡を用いて挿管を行っています。



気管に挿管チューブが入るのがはっきりと分かりました。しかし、頚椎歯突起骨折に関しては4週間の

牽引+副甲状腺ホルモンの皮下注射での保存的治療を行う事が決定しています。



9月7日(day16) 「金沢守クリニック」の4回目の開院記念日を入院、しかも絶対安静のまま迎えています。無念としか言いようがありませんでした。



9月8日(day17) 完全ベッド上安静、ギャッジアップ不可という“修行”のような治療に体が少しずつ順応していく事を徐々に感じています。



ほぼ仰臥位で食事、排泄、睡眠などを行い続けると、次第にそれを体が受け入れ始めます。人間はそんなに弱くないと思いました。



9月21日(day30) 敬老の日だったので、母に電話を掛けています。事故や怪我の事を話し、こっぴどく叱られています。



9月29日(day38) 頚椎の骨折部位を4週間ぶりにCTで再評価しています。骨折部位は治癒しつつあるが、牽引を解除した状態でもう2週間ベッド上安静にする事が決定しています。



尚、長期間牽引し続けた事で後頭部の髪の毛が一部なくなっています。








10月13日(day52) 骨折部位をCT検査で再び再評価しています。結果、ハローベストを装着したままで、

端座位になる事が許可されました。この日から眼鏡を掛け、自分で食事を食べる事が可能となっています。


















10月19日(day58) ハローベスト+頚椎カラーを装着しての歩行が許可されました。8週間ぶりに歩行器を

使用し、歩いています。生まれたての仔馬みたいな自分の状況に大きな衝撃を受けました。



10月20日(day59) 毎週火曜日に行われる教授回診を初めて端座位で待つ事が出来ました。身障者用トイレに座って、受傷後初めて座位になって大便をしています。



久しぶりに使ったウォシュレットに感動しました。又、バルーンカテーテルも抜去し、尿器に小便は排泄する事になっています。



10月21日(day60) ADLは著しく改善し、小便は主に男性用トイレで済ませる事が出来るようになっています。



10月28日(day67) 病棟で行なっていたリハビリを、リハビリ室に降りて行い始めました。結果、色々な道具を用いてリハビリをする事が出来るようになりました。



10月29日(day68) 骨折部位を再評価するために受けたCT検査の結果がよかったので、ハローベストを

外し、フィラデルフィアカラーという装具を装着し始めました。








10月30日(day69) 入浴用のフィラデルフィアカラーを装着し、約2か月ぶりに全身をシャワーで洗っています。



11月3日(day73) 初めて試験外出を行っています。畳に寝転がった状態から起き上がる訓練を行い、久しぶりに自宅の風呂で入浴しています。



11月4日(day74) 病室から歩行器を撤去。



11月6日(day76) 自主的に行うリハビリも病棟の廊下を歩くだけでは物足りず、真面目川沿いの道路(1周約1キロ)を散歩するようになっています。



11月8日(day78) 2回目の試験外出。自宅で入浴し、久しぶりに湯船に浸かっています。やはり風呂は浸かってなんぼだと実感しました。



11月11日(day81) 主治医と相談し、骨折部位を再評価するためのCT検査を16日に受けた後、19日に退院する事が決定しています。CT検査の結果がよければ、装具の種類が変わるので、期待が膨らんでいます。



11月14日(day84) 52歳の誕生日を迎えました。入院中でしたが、土曜日だったので試験外泊しています。お陰で自宅にて誕生日を過ごす事が出来ました。



病棟の看護師さん達にもサプライズで誕生日を祝ってもらったのは感激でした。



11月17日(day87) CT検査とX線検査の結果、頚椎は治癒しつつあると判断されました。フィラデルフィア

カラーを外し、普通の頚椎カラーを装着する事になりました。



入浴時には頚椎カラーを外す許可も得ています。



11月18日(day88) 入院後、初めて一般浴をしました。まるっきり一人でお風呂に入るのは、少し怖かったです。



11月19日(day89) 89日間に及んだ長期の入院生活にピリオドを打ちました。午後から早速入院中にお世話になった方々への挨拶回りを行っています。



11月20日(day90) 主治医の許可は得ていたので、約3か月ぶりに車を運転しています。意外に普通に運転で来たので胸をなで下ろしています。



11月21日(day91) 久しぶりに白衣を纏いました。このブログは21日に書いていますが、連休明けの24日

から本格的に仕事を再開する予定です。



私が三か月の長きに亘って診療所で仕事をする事が出来ない間、代診の医師を派遣して下さった山口大学第一外科の医局、そして訪問診察の代行を行って下さった近隣の診療所の先生方には深く感謝しています。

そして長い間、私の診療に携わって下さった主治医他の先生方、整形外科病棟の看護師さんや看護助手さん達、リハビリテーションの担当者に心から感謝します。



私は約8週間、2か月に及ぶベッド上安静の間、叫びだしたいような気持ちを押し殺しながら、ひたすら耐え忍びました。



私の安静が解除された頃に、病棟の看護師さん達から、3,4日の絶対安静も多くの患者さん達にとっては

耐え難いもので、通常1,2日で人格が崩壊すると聞かされました。



私が終始、大きく心を乱さなかった事を褒めて頂いた事は私の勲章です。



競技志向が強くなると少しでも速くフィニッシュしたいと思いがちですが、そんな事に大した意味はないと

今は考えています。



安全に競技を終え、無事に家まで辿り着く人こそ真の勝者です。



この経験を必ずや今後に活かす事を誓って、果てしなく長く、そしてとっても辛かった闘病記を終えます。