映画の中の人が観る「映画」と「演技」 -3ページ目

映画の中の人が観る「映画」と「演技」

映画の魅力とは何か、演技に魅了されるのはなぜか、を考えます。


『忍者秘帖 梟の城』
★★★★☆
工藤栄一監督。
1963年の映画。
京橋のフィルムセンターで観た。
フィルムセンター は昔の映画が520円で日替わりで上映されているのでオススメ。
観客がおじいちゃんばかりなので上映中所々で寝息が聞こえて来るのもオツ。

工藤栄一監督は東映の京都撮影所出身で監督作に松田優作さん主演『ヨコハマBJブルース』やリメイクもされた『十三人の刺客』、テレビでは『傷だらけの天使』『必殺シリーズ』などを手がけた大御所。
僕自身は工藤監督の遺作になった『安藤組外伝・群狼の系譜』に助監督で参加したことが今も映画を続けている原動力になっている。豪快で優しい監督だった。
工藤監督の話になると誰しもが口を揃えて「あの監督は良い人だったなあ」と笑顔になる。
昔のエピソードとして先輩が教えてくれたのは、朝のロケバスの中、撮影現場へ向かうため高速に入った途端、工藤監督が「おい、引き返せ!」と。
高速に乗ってしまったのでドライバーが「戻れません」というと「次の料金所で降りてさっきの高速の入り口へ戻れ」。
みんな何事かと思い、戻ってみるとそこに酒屋があって「酒買ってこい」と。
スタッフは大笑いしたそう。
酒とタバコが大好きな工藤監督らしい逸話。

さて映画はというと、工藤監督ならではの「雨」と「光」が素晴らしかった。
たとえば人物の立つ画面の真ん中だけいわば四角いスポットライトのように光を当てるなど、大胆だがシーンに合っているので違和感がまったくない。
雨の強さもいい。
主人公の重蔵(大友柳太朗)とヒロインの小萩(高千穂ひづる)とが初めて出会うシーンの雨。そして切りつけるときのカット割り。寄り引き(アップとロング)の切れ味が鋭い。息を呑む素晴らしさ。
その シーン
カメラはまずローアングルで暗がりに立つ重蔵の足元から入り、光の当たっている場に降る雨との対比を出す。カメラがティルトアップすると重蔵の顔、そして重蔵の気づきがあり足早に後方に歩いていくと同時にカメラがティルトダウンしいつの間にか小萩がフレームインしてくる。これだけでもなんと美しいことか。
次回の上映は5/17(日) 1:00pm。

工藤監督は『安藤組外伝・群狼の系譜』のときの雨を降らせるシーンで、そろそろ本番というときに監督がいなくなってしまい「あれ? 監督は?」とみんなで探したら脇で自らがホースを持って雨を降らせていたことがあった。
「俺は他の奴らより親指が大きいからいい雨が降るんや」と自分の雨降らしの技術を自賛していて可愛かった。
それをそばで見ていたのでおかげで僕も雨降らしは得意だ。

『はじまりのうた』
★★☆☆☆
ジョン・カーニー監督。
蟹さんみたいでかわいい名前!
映画もかわいいんだけど、琴線に触れそうで触れないもどかしい感じが残った。
いいところまで連れてってくれるんだけど痛快さまでいかないっていう。

このテの音楽映画だと『スクール・オブ・ロック』が僕の中で最高傑作なので、それと比べるとどうしても見劣りしてしまう。
あと最近なら『ジャージー・ボーイズ』とも比較しちゃうし。

ダン(マーク・ラファロ)の娘(ヘイリー・スタインフェルド)がギターが上手いのか下手なのか、の伝え方が下手!
もっとグッとくるやり方があるはず。
ラストもすっきりしない終わり方でむむむ!

キーラ・ナイトレイさんの歯がガチャガチャなのがいい。
あんなに売れてるハリウッド女優なのに歯がガチャガチャでいいな。
日本の女優さんはすぐきれいな歯並びにしちゃうからな。きれいに見えて不自然でやだな。

ヘイリー・スタインフェルドさんは『トゥルー・グリット』(2010)の演技がすごく良かった。
主演のキーラ・ナイトレイさんは最近観た『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』でもヒロインだったな。
マーク・ラファロさんは『フォックスキャッチャー』でチャニング・テイタムのお兄さん役で出てた。
本編よりこっちの情報の方が、おお! あの役の人か、と興奮できた。

立川のシネマ・ツーで観たのだけれど、最適な音響に調整しているという【極上音響上映】だったのでなんかお得感があった。
今は渋谷のアップリンクで上映してるみたい。
個人的には★ふたつだけど、人にはオススメできる映画。

『神々のたそがれ』

★★★★☆
アレクセイ・ゲルマン監督。
渋谷のユーロスペースで観た。
ファーストカットの雪の積もった風景を観ただけで、どれだけこの監督がワンカットにこだわっているかがわかる。
驚いたのは177分に及ぶこの長編の、全部のカットの中に必ず変化が入っているということ。
たとえば途中で降り出す雨が。霧が。羽ばたく鳥が。嘔吐が。暴力が。カメラ前を塞ぐ手や道具が。火が。これでもかという具合に起こる。
普通は一本の映画に3シーンぐらいそういうカットが撮れれば素晴らしいことなのに、全カットになんて。
凄まじい。
僕自身こんな途方もないものに足を突っ込んでいるのかと、映画に対する畏れを感じずにはいられない。

『やさしい女』
★★★★☆
ロベール・ブレッソン監督。
1969年の映画。
新宿武蔵野館でデジタル・リマスター版での上映。
この映画館もネット予約を開始したのでさっそく活用。

その前にちょっと本の話。
最近では俳優の染谷将太さんが「人生に影響を与えた本」として、ブレッソンの著書『シネマトグラフ覚書~映画監督のノート~』を挙げていて、東出昌大さんにもプレゼントしたというエピソードがあったが、僕も20歳ぐらいのときにこの本にヤラレた経験がある。
「人は、手で、頭で、肩で、どれほど多くのことを表現しうることか!・・・・そうすれば、どんなに沢山の無駄で疎ましい言葉の数々が消え失せることだろう!なんという倹約!」
「眼のためにあるものと耳のためにあるものが重複してはならない」
などなど、この刺激的で強烈な吸引力を持つブレッソンの言葉は「求めていたものはこれだ!」と発見した気持ちになる魔力があり映画の正体を見たかのような達成感に包まれる。
しかしふと気づけば無人島にポツンといる感覚に襲われ、これじゃいかんと再び大海原を泳ぎ出すまでにやたらと時間がかかるやっかいな代物なのだ。
名著にして危険な本。

さて映画はというと。
オープニングの、夜の街を走る車の「音」。
そして昼には、白いストールがふわりと宙を舞うハッと息を呑む「フレーミング」。
または寝室のテレビの前で主人公の女(ドミニク・サンダ)のバスタオルがハラリと落ちるそのショットで、背景の壁に掛けられた絵画に射す「光」。
女が夫を見る「眼差し」。
夫の独白を、妻が横たわるベッドの周りを終始歩かせる「行動=演出」。
回想へ入るタイミングを、意図してズラすという「編集」。
それらが素晴らしい。
それはつまり映画のすべてここにある、ということ。
オーディションや演技レッスンで、もったいないな! と感じるのは、最初に演じた人と似たような動きをしてしまうこと。
「最初の人がこう動いたから、それは守るってこと? 監督は何も言わなかったし違うことをしたら呆れられるかも…」
と勘違いをしている人が本当に多い。
監督やプロデューサーは、セリフの言い回しよりも体の使い方や目力やアイデアにハッとさせられるもの。
自ら個性を殺さないようにしてほしいと思います。

ミッキー・ロークさんの言葉。
『オーディションでは、一つの役におそらく二十人以上が同じセリフを言う。俺はどうすべきか考えた。書かれたとおりじゃなく、もっと面白くしたい、と。失敗してもいいから試すべきだと思った。誤った選択かもしれないが、みんなと同じ安全策を選ぶよりはずっとチャンスがある。いい選択だ、と自分が思ったらそれでいくべきだ』

オーディションでは自己紹介も、最初の人が名前だけ言ったらそれ以降の人も名前だけになることが多い。
それは場の空気を読んでいるつもりでいて、実は流れに流されているだけです。
なぜなら場の空気は最初に自己紹介をした人ではなく、監督やプロデューサーなどそこの主催者が握っているからです。
監督やプロデューサーと場を共有することを第一とするべきです。
主催者は、今後一緒に仕事がしたい人を探しています。
自己紹介だけではなく主催者とコミュニケーションを取りましょう。
たとえば最近あった楽しい話、などは自分もリラックスして話せるのでいい題材です。
自然と笑顔が出せたり、相手に伝えたいという欲求が働くので言葉も主催者に届きます。
だからと言って主催者側にどうでもいい質問をしたり、返事を求めては、場を壊すことになりかねないので注意が必要。
主催者がうなづいたり目を合わせたりしてくれるだけでコミュニケーションは取れているので安心するように。

レッスンでもオーディションでも、いま自分が持っているものは出したい。
力を出せなくて落ちたなら「自分でも良くないのはわかっていたから仕方ないか」と自分に言い訳をしてしまうでしょう。
それでは成長しません。
オーディションで見たいのは、演技力と人間味です。
それらを出せたにもかかわらずオーディションに落ちてしまったら相当悔しいでしょうけど諦めもつきます。
自分に足りないのは何か、次はなにをするべきかを考えることができるからです。
そうして力をつけていくことが俳優としても人間としても必要なのだと思います。

『ワイルド・スピード SKY MISSION』
★★★☆☆
ジェームズ・ワン監督。
TOHOシネマズ新宿で観た。

歌舞伎町にTOHOシネマズがオープンしたので行ってきました。
以前映画関係者から聞いた話だと、1階にすべてのスクリーンを配することで出入りをしやすくし画期的なシネコンになる、下手したら新宿ピカデリーがつぶれるかも、と言っていたのだが完成してみたら1階は飲食のフロアで映画館受付は3階だった。
やっぱりいろいろ難しいんだろうな。

さてこの映画はシリーズもので今回が7作目なのだが今までの作品はひとつも観ていない。
ではなぜ今回、というと監督がジェームズ・ワンだからだ。
「ソウ」(←観てないけど有名でしょ?)や「死霊館」(←傑作)の監督なのです。
トントン拍子で出世してるなあ。素敵。

映画はというと落下フェチの僕の心をくすぐる良作でした。
山道を登っていたトラックが横転して崖に半分乗り出しちゃって、乗っている人がギリギリ抜け出す、とかお決まりのハラハラなんだけどやっぱり好きだな。
アクションシーンも、しっかりとした寄り引きで誰が何をしているか理解できる編集だったし、それだけでも優秀。
でも138分と長くて、ラストにたどり着くまでが盛りだくさんでお腹いっぱいになり、ラストはどうでもよくなってちょっと寝ちゃった。

IMAX+3Dで観たけれど、初めて体験したIMAXは、迫力は変わらなかったな。普通のスクリーンでいいやって感じ。
あと3Dはいつも思うんだけど、映画本編よりも、始まる前の3D紹介の文字が飛び出したりする方がよっぽど3Dで、面白い。ドルビーの音響の紹介も。
本編はそこまで強調しないもんね。せいぜい誰かが投げた何かがこっちに向かって飛んでくるとか、ガラスの破片が飛び散るとか、その程度だし。
6月からは同映画館で「MediaMation MX4D」という最新の「体感型」4Dシアターシステムができるそう。
説明によると『映画のシーンに合わせて、客席のシートが前後、左右、上下に動くとともに、風、ミスト、香り、ストロボ、煙や振動など五感を刺激する特殊効果が11種」あって「アトラクション型の映画鑑賞スタイル」を実現。映画は「観る」から「体感する」に変わります。』とのこと。
ミスト(映画のシーンに沿った匂いが出る)とか十数年前にも映画館で試みがあって、そのときはぜんぜん流行らず一瞬で消えたんだけど今回はどうかな。

『セッション』
★☆☆☆☆
デミアン・チャゼル監督。
TOHOシネマズ六本木で観た。

ついこの前、菊地成孔さんの 酷評 とそれに対する町山智浩さんの 批評 で話題になった映画ですね。

オープニング。黒味の画面にドラムの音だけが鳴り響く。どういう画で始まるのかわくわくする瞬間。しかしドラムの音が長すぎてダレる。
ドラムの音が止む瞬間に、ドラムの前に座っている主人公アンドリュー(マイルズ・テラー)が廊下側からのロングショットで描かれる。しかし画として弱い。
再びドラムを叩き始めるとカメラがアンドリューにトラックアップ。ダサい。いや、それが何も生み出さないから。
夢中になって叩いていると、指揮者で権力者のフレッチャー(J・K・シモンズ)が入り口に立っている。ハッとして叩くのをやめるアンドリュー。初対面の二人。このシーンの会話「なぜ叩くのをやめた?」叩き始めるアンドリュー。「なぜ叩く?」のやり取りもただの権力者の意地悪で気持ち悪い。懸命にドラムを叩いていて気づいたらフレッチャーがいなくなっていて、ガッカリしてるとドアが開き戻ってきて「上着を忘れた」と去って行くのもただの意地悪。脚本をナメるな、という感じ。
シーンの最後の横イチのロングショットもしっくりこない。
全体的に画面サイズもアップが多すぎ。もう少し引いた画の方が品があるのにな。

何か起こりそうな思わせぶりなカットがいくつもあるが、無駄に引き延ばすだけで何も起こらない。悲しい。
脚本もキャラクターも悪意ばかりで痛快さがない。卒業生の死も、交通事故も、ご都合主義でどうでもよく思える。

発表会の日に、遅れてしまうアンドリュー。到着するも忘れ物に気づく。慌てて車で取りに戻る途中でトラックが横から突っ込んできて、車が横転しひっくり返る。血だらけでヨロヨロと車外に出たアンドリューは、なんとそのまま会場へ向かうのだ。「それだけドラムに命かけてんだよ!」そんなセリフはないが、まあそういうこと。
会場に着くとぎりぎり間に合ったようで、仲間が「キミ、血だらけじゃないか」というセリフを言っただけで、だれも中止にしたり救急車を呼んだりしない。アンドリューはスティックを構え、指揮者であるフレッチャーを「さあ始めてくれ」と言わんばかりに見つめるのだった。フレッチャーも一瞬驚くが(当たり前だ)、指揮を始めてしまう。なぜならフレッチャーにとって発表会は最も大事な瞬間だからだ。そして案の定「手が痛くてスティック落としちゃったよー。血だらけだよ~」(そんなセリフはないが)。途中でドラムが叩けなくなりフレッチャーに「お前はクビだ!」と宣告される羽目に。……なんのこっちゃ。なんかズレてる……。

ラストの「私を見くびるな!」はマジか、この展開! と思わず笑っちゃった。嫌いではない。いやここだけ面白かったな。
ただドラムに合わせたカット割り、特にロングショットがダサい。下手なミュージックビデオを見せられてる感じ。ラストのノリノリのアンドリューとフレッチャーの目配せも、目のアップ過ぎて興ざめ。
そして発表会にもかかわらず観客を置き去りにして映画が終わるところも、いろんな意味で凄い。
終始、腹が立ちっぱなしの映画だったがみんなに見てほしい度は星三つぐらいかな。

『山の王者』
★★★★★
エルンスト・ルビッチ監督。
シネマヴェーラ渋谷で観た。

ドリュー・バリモアの祖父に当たるジョン・バリモアが主演。
まず岩山がすごい。セットだと思うのだが急斜面で、ゾッと恐怖を感じた。素晴らしい。
だからこそマーカス(ジョン・バリモア)が崖に咲くエーデルワイスを摘むショットが光り輝く。

そして群衆心理の表現がうまい。銃を規制するという張り紙を見て、「俺たちに自由はないのか」と民衆はガッカリしてその場をぞろぞろと立ち去る、とポツンと突っ立ったままの少年がそこから現れる。これがいい。シーンをただ終わらせずに不意打ちでハッとさせる瞬間に観客を立ち合わせる。

別のシーン。
村人の中で唯一猟銃を手放さなかったマーカスは恋人に咎められるも、その意見を受け入れられずにその場を立ち去る。恋人のことを想いながらとぼとぼ帰宅するマーカス。ドアを開け部屋に入っていく。カメラは外からそれを見守る。普通はここでシーンが終わるのだが、ルビッチは違う。しばらくしてドアが開き、室内に勝手に入り込んでいた別の女がポーンと外に放り出されるのだ。この女はマーカスのことが好きなのだが全く相手にされていない、という設定。
この、終わったかなと思わせておいて意外な展開を入れてくる「映画の呼吸」が素晴らしい。

そのあとの恋人の家のシーン。
落ち込んでいる恋人。そこに家の呼び鈴が鳴る。玄関に行くと銃がそっと置いてある。ハッとして家を飛び出し、マーカスを追う。そして二人は抱き合う。
粋だなあ!
これが観客の心を掴んで離さないルビッチ・タッチだ。

ジョン・バリモアはハワード・ホークス監督の『特急二十世紀』も大傑作なので機会があれば観てほしい。


『龍三と七人の子分たち』
★★★★★
北野武監督。

僕には人生を変えるほどの影響を受けた三本の映画がある。
一つは映画監督を志すきっかけとなった相米慎二監督の『お引越し』(1993年)を観たとき。それまで全く映画に興味がなかったのだがこれ一本で覚醒した。

二つ目が北野武監督の『ソナチネ』(1993年)の衝撃。これは僕だけではなく誰しもがあのカット割り、演出、無表情、間、暴力性に憧れ、武さんを真似た演出が流行ったほどだ。
今や原作モノでないと大作を撮れない時代に、北野武監督はオリジナル脚本だけを撮り続けている唯一無二の存在。
90年代は新人、北野武監督と阪本順治監督の時代と言われていた。ともに監督としては1989年にデビューしている。

三つ目はエルンスト・ルビッチ監督の『生きるべきか死ぬべきか』(1942年)。相米さんや武さんに憧れ、映画は作家性だ、などと思っていた若かりし頃の生意気な鼻をへし折られ、改めて映画って奥が深い! と痛感させられた傑作コメディ。
「古い映画なんて観る気になんない」と思うかもしれないが実は観てしまったら「現代の映画なんか観る気になんない!」と口にしてしまうこと間違いナシ。
現代に映画を撮るものとしては知らない人には観せたくないという気持ちもあるぐらいだ。
本当かよ、と思うなら4月25日~5月15日まで渋谷のシネマヴェーラでルビッチ監督の特集が組まれ、『生きるべきか死ぬべきか』も上映されるので自分の目で確かめてほしい。

そういえばその昔、僕が助監督として映画会社に出入りしていた頃、たしか東映だったと思うが「北野武組」というスタッフルームを見つけ「わー! スタッフで参加したい!」と大興奮して、後日連絡先などを書いた手紙を持って行き、その日は誰もスタッフルームにいなかったのでスタッフルームのドアに挟んで置いておいたことがある。まあそんな無謀なスタッフを雇うわけはなく、結果連絡は来なかったがとても高揚した気分だった。

まあそんなことはさておき、映画『龍三と七人の子分たち』は傑作だった。
元来誰しもが持っている恥ずかしい部分や下品さを愛おしさで表現しているコメディ映画。
ジジイ8人が揃ってから映画が躍動しだして特に潰れた銭湯の前での小競り合いは笑った。
脚本がうまいなあ。そのシーンの終わりがまったく予測できない。
物語というよりもキャラクターの行動が予想外なのがいい。

強いわけでも賢いわけでもないジジイたちが義理人情を武器に現代の闇と向き合うのだが、若者たちにそっちの方が「狂ってる!」と言わせるあたり、今の日本を深く抉っていていいな。

あと驚いたのは絵になる風景を撮っていないこと。
思わせぶりなキレイな映像が皆無だった。
とくにオレオレ詐欺の受け渡し場所や、京浜連合の事務所の廊下など。
画の強度に頼らずに人間を描いていて潔かった。

あとやはり藤竜也さんの高い声がいい。予告編でも観られるが「はい。わかりましたよ刑事さん」の「はい」の言い方なんてのは藤さんしかできない芸当。
そして中尾彬さんのキャラクターが強烈すぎる! いい。決め台詞も笑えるし、後半おもちゃにされるところも大好き。
みんなキャラクターが一貫していて繰り返しのギャグもあるのだが、それがくどくない。サラッと演じさせているのともちょっと違う。そこが愛おしく感じられる。それは全編に北野監督の愛があるからだと思う。
久しぶりに愛と笑いに溢れた映画を堪能できて幸せだった。
「自分をさらけ出す」とは何か。
俳優なら一度は「自分をさらけ出せ」と言われたことがあると思います。
それはどういうことでしょうか? どうすればいいのでしょう?
普段僕たちは人前で本気で笑ったり、怒ったり、泣いたりという感情を「なるべく出さないように」生きています。
そのため演技をするときにも感情を抑えてしまうのです。
逆に意識的に感情を出そうとすると「大げさだ」と言われてしまいます。
僕たちは日常、本気で笑っている人や、泣いている人、怒っている人がいると相手の感情が伝染して自分も感情が揺さぶられます。
たとえば大笑いしている人を見て思わず笑ってしまったり、自分の失敗を笑われて思わず怒りが湧いてきたり、などです。
そう、感情は「思わず」出てしまうものなのです。
「今から笑おう!」とか「今から泣くぞ!」と考える人はいません。
しかし演技では笑おう、泣こうとしてしまいます。
そうではなく感情とは「思わず」笑ってしまったり怒ったり泣いたりするものなのです。
そこを履き違えて、感情を出そう出そうとすると「大げさな演技」になってしまいます。
さて「自分をさらけ出すには」という本題に戻りましょう。
自分の家で一人でいるときの表情や態度、恋人や親友と二人きりでいるときの表情や態度やしゃべり方、家族といるときの表情や態度やしゃべり方、それを演技でも出せる人が俳優として価値のある人だと思います。
つまり俳優とは格好つける存在ではなく、普通の人間なら人様には見られたくない表情や態度やしゃべり方、即ち「恥ずかしい部分」ををあえて第三者(スタッフや観客)に見せることができる人のことです。
僕たちが映画にお金を払うのは、普段人には見せられないものを暗闇の中でこっそり見せてくれるからです。
だからこそ観客は感動したり共鳴したり憧れたりするのです。
それが「自分をさらけ出すこと」であり「人間味」と呼ばれるものです。