札幌の開拓史や共に発展した『ススキノ』の歴史探訪と当時の料理を再発掘したいと思います。

 

 前回のお話↓

鍬音は東から | 猫おじの札幌探訪記 (ameblo.jp)

 

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 幕末から明治に変っての初め・・・。
 
様々な想いを胸に抱きつつ、
北海道に渡ってきた和人達は、いったいどのような気持ちで、この写真のような夜明け空を眺めたのだろう。
 
 元来、この土地に暮らしていたアイヌの人達にとっては、それが日常の何ら変哲もない生活の中、
朝の光を彫深い双眸で眺めていたのだろう。
 変わりつつあること出来事と言えば、徐々に増えてゆく和人達の往来や、持ち込まれる日本の工芸品、目新しい文明的な道具等に俄かに興味を惹かれ、アイヌの若いメノコ(女性)たちは、櫛や簪などの自分達とは違う装飾品を興味津々で見つめていたのかも知れませんね。
 
 先人たちは、七つ時(午前4時頃)前にはすでに起きだしていたと言いますから、
写真のように、山向こうから空を赤く染めだした頃には、既に一通りの朝の作業が終わり、朝餉の準備をしていた辺りだったのでしょう。
 
 上の写真から家々と取り払い、そこには鬱蒼とした林が広がっていたり、あるいは果てしない白い平原が広がっている風景を想像した時、私達の知っている北海道では無く、『蝦夷地』と呼ばれた土地の原風景が蘇ってくるようです。
 
 遠く森の向こうを抜けたところ、『コタン』と呼ばれるアイヌ人達の村が点在し、『チセ』と呼ばれる家屋からは、細い煙が、たなびいていたことでしょう。
 
 エゾシカやオオカミ等の声が遠く聞こえ、ひっそりとした林の木々に積もった雪は、なにかの弾みに音を成して雪面に落ち、その枝や葉を揺らしていたのでしょう。
そういった雄大な自然の中を、人々は狩りや、薪拾い、交易の為にカンジキを履き、道なき道を往来していたのでしょうね。
自然遺産の知床半島の冬景色にも似た景色が、北海道の其処此処に広がっていたのかもしれません。
 
 松前藩の管轄の元、和人とアイヌ人達との交易が始まっており、主たる交易品は『鮭』だったそうです。
他にも、個人的に金子や鉄材等の交換では『食料品』もあったと思われます。
アイヌ人が採取する山菜や、狩りで得た動物の肉、毛皮、そうゆうのも物々交換していたと思われます。
 
 一度、郷土資料館やウポポイ(白老)辺りで調べてみなくてはいけないのですが、
この北の大地は、本当に農耕が成り立たなかったのでしょうか。
 一説には、松前藩がアイヌ人達の蜂起『シャクシャインの戦い』以降、武器になりうる農耕具を取り上げたので、アイヌ人は農耕をしなかった、とゆう見解を示す人もいます。
 
 また、和人達もすでに米等の作物の栽培には成功していたが、安定しない収穫を石高に勘定されては都合が悪いと考え、幕府に伏せておくために、収穫を報告しなかったとゆう見解も有ります。
 
 一年中を雪に包まれた土地な訳でもなく、
春もあれば夏も来る。収穫の秋の気候が北海道には揃っているので、『農耕にはまったく向かない』とゆうのも、
何か違和感を感じたりもします。
記録には残らない、沢山の事情た沢山あったのでしょうね。
 
 いずれにしても、最初に入植した頃の人達は、ヒエやアワを煮ただけの御粥のようなものを食べたり、
川で魚を獲ったり、アイヌ人達から譲ってもらった獣肉(ジビエ)等を食事にしていたことは事実で、
現代人ならレクリエーションでそんな不便な生活をするのも、キャンプ気分で面白みを感じるかもしれませんが、
これが何日何か月、何年と続くと考えると、絶望的な不便さがあったとのだろうと、容易に想像できます。
まして、仲間も話し相手も少ないとなると、人々からは笑顔は失われていったのかもしれません。
 
 『サッポロ』とゆう土地に比べると、函館は城下町として大きく発展していましたし、小樽はすでに町が形成されていました。それぞれの港には、本州からの北前船(おそらく三十石船の大きな船だと思います)、本州の食糧も沢山入って来たと思います。
やがて、それらの港を中継して石狩の海にも北前船は来ていたかもしれませんが、初期の頃はそんな便利な事もなく、
小樽とサッポロを荷車やソリで往来して、物資を運んだものと思われます。
多分、『輸送コスト』を含んで、それらは増々高価になった事でしょう。
 
 中々普通の人には行き届くものではなく、初期の開拓使調役も、
『資金が無い』、『食料が無い』
と政府に対して何度も苦言を申し上げていたようです。
そういった事を聞き入れて貰えず、短期間の間に調役は変わり、中にも一度も北海道の地に足を踏み入れない開拓使の高官もいました。
 
 このような状況で、明治二年からの開拓事業は一度は頓挫したものの、明治三年の暮れ近くなり、再び開拓事業は動き始めます。
 前年の失敗に鑑み、このような『無い無いづくし』の状況ではありましたが、札幌初の遊郭『東京楼』は開館しました。
欠かすことの出来ないものが酒と料理ですが、現地で調達できて、その頃の日本人が素直に食べれたものと言えば、鰊や鮭、エゾシカの肉辺りであったろうと思います。
一説には『オットセイの肉』が精力増進に良いとも言われていたので、アイヌ人たちから買い、そういった料理もあったのかもしれません。
 ギリギリで手に入る食材を使い、東京から連れてきた花魁や芸妓と共に酒宴が開かれた訳ですが、
それはあくまで政府の上級役人や、裕福な商人といったような、ごくわずかな人達だけが楽しむ事ができた施設だった事でしょう。
 
 悪い事のようになってしまいましたが、当たり前にあり、誰もが認識していた『官官接待』。
それはある意味、日本の国政や商業の基盤であったかもしれません。
余談ですが、私は友達に『飲食店をやろうか』と話を振られた時に、正直ここにひっかかったのです。
 
 事業を進めようとしたとき、どうしても取引先との折衝も必要だし、自治体や国の許可が必要な場合、何をどうしたら良いのかと詳しく聞きたいと欲した時、人は人を招待してジックリ話を聞きたいと思うものです。
まして、先方も『どうゆう会社がどんな思惑で事業をしているのか』が知りたい訳です。
どれほどの丹力があるか、どれぐらいの資金があるのか、計りではないですが個々の人が把握する事は大切な事だったと思います。
良くも悪くも、そうゆう場として、『接待の場』はあったと思います。
 
 料亭、高級クラブ、少しランクはさがるけどキャバレー。
全てが全てでは無いですが、目に見えて『接待=悪い事』となってから、どれほどの店が消えて行ったでしょう。
それらのおこぼれ、ではないのですが、ススキノのネオンに花を添えた小さな店も消えて行きました。
その結果は何かと言えば、バブル崩壊や最近言われている『失われた30年』と言われる不況時代。
『水清ければ魚棲まず』と言いますが、正にその通りだったと思います。
 私が友達との飲食店の話に躊躇したのか、そこにありました。
せめて、夜の世界がその役割を持って(流行るには訳がある)活気を取り戻さない限り、ビルのテナントに入る小さなお店は、閉店と移転と開店を繰り換えさえなくてはいけない。
北24条や琴似辺りの繁華街の衰退は、正にその結果だったと思えた訳です。
 
 最近、にわかに平均株価が高値になり、『バブルの再来!』等と言って株主や人を煽り、そうゆうのに投資する人が増えれば景気回復するような事を思わせる報道や広告がありますが、本質がすっかり廃れている今の世の中、私は好景気がくるとは到底思ってもいません。
 
 これから必要なのは、開拓にきた先人たちのような、己の知恵と行動力と、孤独に耐えうる事ができる精神力が無ければ、生きて行けない時代だと、すこしばかり大げさかもしれませんが、そう考えたりします。
まして、主要な観光地は外国人に買い占められ、雇われたり家賃を払う身となった北海道民が現状です。
北海道人が北海道で生きる事も困難になってきているこの姿・・・和人に追いやられて行く、アイヌ人達の姿に似ているような気がしてなりません。
 
 

 
 この写真は野幌の『開拓村』に移築された明治期の建物です。
 
 このような光景の中を先人たちは往来し、
やがて街並みへと変わって行ったのでしょう。
道なき原野を切り開き、整地して建物を建てる…。
単純で泥臭い生き様だけど、
こうゆう気概は、人間として持ち続けたいものです。