元々は仕事関連で使っていた『Yahooブログ』からの引っ越しでしたが、仕事でのブログを卒業しました。

なにか、自分に合っているブログネタは無いかな、と模索しておりましたが、

札幌の開拓史や共に発展した『ススキノ』の歴史探訪と当時の料理を再発掘したいと思います。

 

 ススキノの歴史探訪しようと思った切っ掛け↓

ススキノの歴史を調べようと思ったキッカケ。 | 猫おじの札幌探訪記 (ameblo.jp)

 

 前回までのお話↓

『東京楼』の残影 | 猫おじの札幌探訪記 (ameblo.jp)

 

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 時代の流れで蝦夷地(北海道)の立ち位置は目まぐるしく変わってゆきます。

松前藩の管轄から安政2年には幕府直轄となり、和人の移住も始まりました。

その事情の中、随分の人々も翻弄されたようです。

僅かな期間の間に、石狩調役も入れ替わりました。

 

 歴史の波の中に見え隠れする人物相関で、早山清太郎とゆう人物の名前が見られます。

恐らく、私の考えではこの人物が、札幌近辺に一番詳しく、一番最初に土地に住み着いた人物だと思います。

 

三代目の石狩調役となった荒井金助は、調役を辞した後に篠路に入植しました。

恐らく、胸襟を開く仲となっていた早山清太郎がその呼応に応じて、現在の琴似から篠路に移住して『荒井村』共に開拓の始祖となったのでしょう。

 

 この早山氏が初めて蝦夷地に渡って来たのが嘉永五年(1852年)の事。

最初は現在の手稲区星置に居住し木伐の下請けを行っていたそうです。

この5年後の安政四年(1857年)に先述の、荒井金助が石狩調役の三代目調役となり、この同時期に荒井氏が、志村鉄一なる武士を豊平川の川守兼駅逓(駅逓とは、宿泊施設や郵便等を扱う業務)として着任させました。

 

 荒井金助と志村鉄一は、同世代でこの時にはすでに50歳辺り。 おそら旧知の間柄だったと思います。

また、この翌年の安政五年に有名な『安政の大獄』があり、国内が不穏な頃でもありました。

そんな時代背景に、荒井金助や一説には剣客として生きて来た生粋の武士だった志村鉄一が同調して蝦夷地に赴いたのも、こうゆう不安を秘めた時代での、縁あっての事だったのかも知れません。

 

 木伐をしていた早山氏が、いつ頃星置から琴似に移住していたのかは定かではありませんが、琴似村として屯田兵が入植するのはこれよりずっと後の事ですので、きっと鬱蒼とした林の一部を切り開き、そこに粗末な家を建てて住んでいたものと思われます。

 

 この頃、現在の琴似の地区に何人ほどの人達が、早山清太郎と共に暮らしていたのでしょう。

もしかしたら、木伐の仕事仲間たちが、伐採がてらに少しずつ星置から移動してきたのかもしれません。

伐採した木材は、小樽から北前船で本州に送られたのかも知れませんし、もしくは小樽の町造りに使われたのでしょう。

 

 安政五年(1858年)、大友亀太郎が旧元村(現在の札幌市東区)に土地を選び、慶応二年(1866年)には函館奉行所の直営農場を開きました。『大友堀』を開削し、これが北海道における本格的な農業の基盤となりました。

 

 慶応四年、もしくは明治元年(1968年) 志村鉄一の対岸に同じく川守と住居していた猟師、吉田茂八が現在の創生川の堀を造り上げて行きました。これを当時は『吉田堀』と呼称しました。

 

 明治以前、時代は風雲急を告げる藩政時代末期、にわかに札幌近郊の山に伐採のこだまは響き、開拓の鍬音が聞こえ出した頃でした。

 

 また、先にに名前を上げた大友亀太郎が最初に入植したのが元村ですが、明治四年(1872年)、苗穂村、丘珠村、札幌新村が元村と合併し、ようやく札幌市の元祖となる札幌村が誕生したわけとなります。

 

 現在よりずっと東側の方から街造りが始まったわけです。

現在は少し街外れな感がある創生川沿いですが、当時は所狭しと家々や商家が軒を連ねたこの街道こそ、黎明期札幌の商業を支えた中心地だったのも、なるほど頷けます。

 

 

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※ 写真や石碑を調べて掲載もしたいのですが、まだ積雪も残っており中々足が運べません。

これ位の積雪で文句を言っては当時の人にどやされそうですが、なんせ私も無精者も手伝って引きこもり勝ちとなっています。

また、校正や写真を添付しようと思いますので、よろしくお願いいたします。