<平氏(伊勢平氏)の台頭から滅亡>
1.台頭の足がかり(保元・平治の乱)
保元の乱と平治の乱という2つの権力闘争において、平清盛が勝利を収める。ライバルであった源氏の有力者を排除し、
武士として初めて朝廷の頂点へ上り詰める基盤を固めた。
1)保元の乱(1156年)「天皇家と藤原氏の身内げんかに、武士が巻き込まれた戦い」
① 原因:
皇室の対立:後白河天皇VS崇徳天皇(兄弟の権力争い)
藤原氏の対立:藤原忠通VS藤原頼長(弟の関白争い)
② 構図:」
後白河天皇グループ:平清盛、源義朝など
崇徳上皇グループ:平忠正(清盛の叔父)、源為義(義朝の父)など
③ 結果:後白河天皇側の勝利。
<ポイント>:貴族どうしの争いを「武士の力(軍力)で解決した」ため、武士の重要性が一気に高まった。
2)平治の乱(1159年)
保元の乱の後、政治の実権を握った学者出身の信西(しんぜい)と、彼に重用された
平清盛ばかりが出世・優遇された。これに不満を抱いた藤原信頼よ源義朝が手を組み、
クーデターを起こす。
① 構図:平清盛グループ(+信西)VS源義朝(+藤原信頼)
② 結果:平清盛の勝利。源義朝は敗死し、息子の源頼朝は伊豆へ流罪。
<ポイント>:ライバルの源氏を退けた平清盛が絶対的な権力を確立、「武士としての政権(平氏政権)をつくる道が開
かれた。
<まとめ>
① 保元の乱で「政治の決着には武士が必要」
② 平治の乱で「源氏VS平氏」の勝者が決まり、平清盛の天下に。
③ この時逃げ延びた源頼朝が、のちに成長して平氏を倒し、鎌倉幕府を開くことになる。
2.全盛期と栄華 1167年~1189年
平清盛が武士として初の太政大臣に就任。「平氏にあらざれば人にあらず」と称されるほど権限が集中した。
3.反平家の広がりと清盛の死
独裁的な政治に対して皇族や寺社、全国の武士が反発。以仁王(もちひとおう)の令旨をきっかけに、源頼朝や源義仲らが
挙兵(治承・寿永の乱)。混迷の最中、平家の絶対的なリーダーであった平清盛が病死し、平家は求心力を失う。
4.都落ちから滅亡(壇ノ浦の戦い)1183年~1185年
源義仲の攻勢により、平家は安徳天皇と三種の神器を抱いて京を脱出(都落ち)。
その後、源義経の奇襲(一ノ谷の戦い、屋島の戦い)で追いつめられ、1185年の壇ノ浦の戦いで敗北。幼い安徳天皇ととも
に一族が入水し、平家は滅亡した。
<要点まとめ>
① 台頭の理由:武力による朝廷への貢献と、入宋貿易による経済力。
② 滅亡の理由:貴族化したことによる武士層からの離反、後白河法皇ら貴族勢力との対立、絶対的指導者・清盛の死。