日常で感じたことや過去の記憶を辿りながら、短歌を創っている。その短歌をラインメールで友人に送っている。その友人とは、メールで会話していると言っても差し支えない。私が言葉のボールを投げ、彼がそのボールを受けて返してくれる。このような形の会話を楽しんでいる。
昔話になり、尾瀬への思い出を書いた。黄金色に染まる湿原をひたすら木道を歩いた記憶が残っている。その時の記憶を思い浮かべて、尾瀬の短歌を創った。
<歩いても 歩いてもなお 草紅葉 懐かしの尾瀬 木道をゆく>
今から28年前に遡る。御殿場南高校に赴任した9月の秋休みに、英語科の同僚二人に誘われて初めて登山した。尾瀬への登山口である「鳩待峠」から「至仏山」を登った。雨合羽を着て山頂へと登った。山頂から尾瀬を眺めることはできなかった。山を下りて、山小屋に一泊した。翌日の朝、尾瀬の草紅葉の湿原を歩いた。それぞれの歩くペースが違うので、休憩の時以外は、もくもくと一人で歩いた記憶として残っている。今でも、尾瀬の景色が浮かんでくる。友人は、「一度行ってみたいと思っていた尾瀬だけど、叶いそうにもないな。」と。
この会話で、学生時代に友人と東京から長野まで歩いたことを思い出した。ほぼ60年前の記憶である。一句詠んでみたのが、次の短歌だ。
<炎天下 寝袋担ぎ 国道を 友と二人で 歩いた記憶>
大学1年の夏、高校の友人の三人で旅行しようとの話しになった。一人の友人がアルバイトで時間の調整ができなくなり、旅行を取り止めることになった。すると、友人の一人が長野駅まで歩いていくと言い出した。「一人でも行く」と、無茶なことを言い出した。やむを得ず、一緒に行くことになった。戸田橋から長野駅までの210キロを5日間で歩いた。寝袋を担ぐ登山姿で、炎天下の国道を歩いた。1時間を目途に、ドライブインで休憩した。歩くペースが違うために、一緒に歩くことは一度もなかった。汗を流しながら、国道をひたすら歩いた。歩いていた時に、トラックの運転手が「どこまで行くのか?乗せていくよ」と声をかけてくれたことが、何度もあった。その度に、「歩いていますので」と断った。10時間ほど歩き、暗くなってから学校を探した。一泊目は、深谷女子高校の保健室に泊めてもらった。当時は、どこの学校にも宿直の先生がいた。その先生に「どこでもいいです」と言ってお願いした。二泊目は、横川の小学校の宿直室に泊めてもらった。この時、私は39度の熱があった。この先生に親切にして頂いたことは忘れてはいない。三泊目は、軽井沢のバンガローに泊まった。四泊目は、上田高校の体育館を使わせてもらった。この徒歩旅行は、一人ではできなかったことは確かだ。前半は、友人に引っ張られたが、後半は、私が引っ張ることになった。忘れがたい青春の思い出となっている。
この短歌のAIの講評を記す。
無鉄砲さや青春のエネルギーが率直に表現されています。ただ歩くだけのタフな旅も、「友人と二人で」あったからこそ乗り越えられ、何物にも代えがたい「記憶」として心に刻まれている。ノスタルジーと青春の眩しさがまっすぐに伝わってきます。