今日は、長崎の被爆の日である。近年、緊迫する世界情勢ではあるが、「非核三原則」は国是である。核抑止は、戦争の抑止にはならいと思うのが私だ。どんなことがあっても、戦争をしてはならない。戦争ほど残酷なものはない。人類の破滅への道を歩んではならない。

 

*    短歌の形式で、自らの考えを二つの句で表現した。

 <自らの 考えを持ち 自律して 生きる道を 培うべきなり>

 <対話とは 心の通う 人間の 能力であり 肝要である>

 

*「学校の目的は、大人にとって管理しやすい秩序を作ることではありません。子どもたちが、自分で考え、自分で判断し、行動できるようになること。そして意見の違う他者と対話しながら、社会をつくっていける力をみにつけること。それこそが学校教育だと考えています。」(元麹町中学校長・工藤勇一)

 以前、「目的思考」で学びが変わる」(工藤勇一の挑戦)を読み、工藤氏の学校改革に共感を覚えていた。「何のために」、「誰のために」が教育の目的であり、原点である。この目的実現のための教育活動が手段である。目的と手段を差し違えることが多いのが組織の現実である。例えると、校則は目的ではなく手段である。校則を守らせることが目的になりかねない。生徒を管理することが教育との考え方が、学校社会で根強いことは確かだ。私は、過去の42年間の教員生活で、管理教育には反対の立場を取って来た。

 工藤氏は、「先生の言っていることは本当に正しいのかな?」「この仕組み、何かおかしくない?」という疑問を持って、何のためにやるのか、誰のためにやるのかを考えられる子どもを育てること。社会構造や経済構造が大きく変わっていく中で、子どもたちに求められ力が変わってきている背景がある。

 今やAIの時代である。生成AIが急速に進化している。AIが人間の仕事に取って代わる時代に変化している。このような時代で、人に何が求められるのかが問われている。数値化されたデジタルの世界では、人間は無力になっている。AIをいかに活用するかの時代になっている。人間は、アナログの世界だと思っている。パスカルの「人間は考える葦である」は至言だと思う。人間は、社会的な感情の動物である。人間には、AIにない心がある。

 私の人生への考え方と教育に対する考え方は変わらない。「人間を育てる」のが教育であり、「人生をどう生きるか」が人のあり方と考えている。人の価値観により違いがあることは当然なことだ。だからこそ、「対話」が不可欠なのだと思っている。学習・読書、人との関わり、経験から学ぶのが人間である。人間の根底に「哲学」が必要な時代になっている。